嫉妬心がまるで刃物のように
非常に長文になりまして申し訳ありませんが、どうかこのどうしようもない感情をどうすれば良いか教えてください。
私には趣味があり、趣味で知り合えた友達がいました。とても気が合い、とても仲良くしていました。
その友達は私よりも長く趣味を続けており、それ故に私よりも遥かに技術がありました。そして私の見える範囲において、とても多くの人が友達を評価し彼女は毎日のように称賛の言葉を貰っていました。
私にとっても彼女は自慢の友達であり、趣味においては誰よりも尊敬できる相手のはずでした。
きっかけは私がとある人から仲間外れにされ、その人の周囲の人間と付き合えなくなった事でした。私の友達はその人が主催する企画に参加し、その中で多くの脚光と評価を浴びているのを私はただ眺めていることしかできませんでした。
私はその場から離れ他のグループの人達と積極的に話すことにしました。
しかし、私の友達はそのグループとも仲が良く、新たに見つけた居場所でも彼女はいつもいつでも評価されていました。
いつしか私はありとあらゆる場所で目に入る彼女への称賛の言葉のうち、一言でもいいから自分にもかけて欲しいと思うようになっていきました。
私も趣味においては自分なりのこだわりや見てほしい点がありました。しかしいつでも目に入るのは友達の作品への褒め言葉。私を褒めてくれる声もありましたが、その何倍も何十倍もそれを貰っている友達のことを考えると私にももう少し認めてくれる声があってもいいのではないか、と浅ましくも考えてしまうようになってしまいました。
私は「褒めて欲しい」しか言わなくなってしまい、その結果仲良くしてくれたグループの何人かに嫌われてしまいました。
それから私の嫉妬心は爆発し、友達に八つ当たりのように嫉妬の言葉をぶつけて結局その友達にも嫌われて居場所を全て失ってしまいました。
自業自得の結果ではありますが、人間関係を経ってしばらくした今でも自分と他人の心さえ切り刻むような荒れ狂う嫉妬心と全てに対する後悔で壊れてしまいそうです。
寝ても覚めてもこの事しか考えられません。
私は誰が憎かったわけでもなく、ただ自分も見て欲しかっただけなのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分を本当に見なければならないのは誰でしょうか
「私は誰が憎かったわけでもなく、ただ自分も見て欲しかっただけなのです」
心に残る言葉ですね。
友人が称賛されて寂しい気持ちになったのでしょうか。ですが貴方を褒めて下さる方も居るわけですね。誉められる数の問題なのでしょうか。
他人からの批評を追求する道は行き止まりですよ。
他人ではなく貴方が自分を見ましょう。自分の責任者は貴方です。
裁くことは自他を切り刻む世界を生きること。感じておられる通りですね。
しかし、そこを潜って初めて自分を愛する・大切にする・見る道が見つかると思います。
感じる痛みは心の成長期の痛みです。自分自身の内に目を向けて頂きたい。
質問者からのお礼
ご回答いただき誠に感謝します。
思えば、私は自分の価値を他人に委ねてしまっていたのだと思います。
私は自分自身が嫌いで人に依存してしまう癖があるということに気づかされました。
自信が持てる自身ではありませんが、今一度自分に何があるのか考えてみます。
ありがとうございました。