托鉢のお坊さん
こんにちは
托鉢について質問させて下さい。
1、托鉢のお坊さんを時々出かけた先(繁華街など)で見かけます。
私はこれも縁と思い、時々わずかですが、お金を差し上げるのですが、最近知人から托鉢のお坊さんにも「偽物」がいるらしいと聞きました。
何か見分け方はあるのでしょうか?
それとも、たとえ偽物でも、お布施する事がわずかでも私の心の修養(?)になるのでしょうか?
2、「高野山」と書かれた茶色の着物を着た、托鉢のお坊さんを10月と2月に、それぞれ別の場所で見かけました。真言宗でも托鉢する事はあるのですか?
3、托鉢のお坊さんのお椀にお布施する時、周りの目が気になって、無言で近づき、お金を差し上げ、手を合わせてそそくさと逃げ去ってしまうのですが、何か作法のようなものはあるのでしょうか?
せっかくの機会ですので、教えて頂きたいです。
些細な質問で申し訳ないです。
いつもこのサイトでお坊さん方の暖かい回答を読んでは勉強させていただいています。ありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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真偽は定かではありませんが
恥ずかしながら私は結構な腰痛持ちだったりで長時間棒立ちが出来ませんので、させていただいたことはありません
ですが一応私服のときにお見掛けすれば少ないながらも入れさせていただくようにしております、自分の罪悪感のようなものに対しての行いのようになってしまっていますが・・・
さて、托鉢をされている中には偽物もいる、というのは私もネットだけでは見たことがございます
ただ自分がそれをしたことが無いので真偽のほどが分からないのでございますが、見分ける可能性のある方法と致しましては偈文として「財法二施 功徳無量 檀波羅蜜 具足円満」とお唱えされているか、ということを踏まえれば見分けられるのかな、と少し考えます、はっきりとはそうだとは申せないのですけれども。
ですが僧侶であったとしても無かったとしても、自分自身の身を切って立ち続け托鉢されている方というのは私は尊敬に値すると思っております。
生半可な小銭が欲しい、くらいの気持ちで出来るかとなると日雇いで仕事するほうが余程よろしいかと思います。
で、あるならば自ら進んで托鉢されていらっしゃるならば、みな一様に本物なのではないか、と私はそう思っております。
それでももしどうしても気になるようでしたらお金でなく小さなお米の子袋を持ち歩いてそれを入れる、というのでもよろしいかと。
本来はその日を生きるための食糧などをいただくものでしたので。
質問者からのお礼
早速のお返事ありがとうございます。
確かに、時間はともかく、一定の間ずっと道端に立ち続けるのは体力のいる事かもしれませんね。精神的にも辛いでしょうし。
「自ら進んで托鉢されているなら、みな一様に本物」
という言葉にすごく安堵しました。
今度どこかに出かける時には、さっと渡せるようにお米の袋を用意しておこうと思います。
良い事を教えて頂き、本当にありがとうございました。