友人の魂はどこにいるのでしょうか?
1ヶ月前に大切な10年来の友人が亡くなりました。
それを知ったのは昨日のことです。
高校生の時からの大切な友人でしたが、私と友人は2年ほど連絡を取っていませんでした、というのも私は友人の些細な一言で怒ってしまい、連絡を取ることを一旦やめてしまっていたからです。
1月に急に友人からメッセージが届きました。
「いろいろなことがあってパニックになってる、たくさん話したいことがある、また前みたいに遊びたい」と言われて私はまだその気になれない、と回答をしました。いつかまた友人の言葉を許せたら遊びに誘えばいいと思っていました。
私の回答を聞いた友人はとても反省していて、これからは連絡とらない方がいいよねと返信をくれました。
私はその返信について何も答えられず、悩んで返信をしないままでいました。
そして昨日、その子の母親から彼女が2月に死去したという旨のメッセージをもらいました。
肝臓がんでした。
まだ連絡とりたくないとは言ったけど、またいずれ遊びたいと思っていたし、またいつか会えるものだと思っていて、すぐに返信を返さなかったことを強く後悔しました。
彼女に嫌な事を言われたり、うんざりすることもあったけど、友達をやめたいなんて思っていないし一緒にいるのは本当に楽しくて彼女のことは大好きだった。
この気持ちをどうにかして彼女に伝えたいです。
自己満足になってしまうけれど、これだけはわかって欲しくて。
49日までは、亡くなった方の魂は現世?にとどまる、という様な話を聞いたことがあります。
彼女のお仏壇はなく、お墓があると彼女の母親から聞きました。
すぐにお墓にいってこの話をしたら彼女に聞いてもらえるでしょうか?
ほかに伝える方法はあるのでしょうか?
教えてください。
長くなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。
どうかよろしくお願い致します。
他人に嫉妬したり妬んだりしてしまいます。 時間にルーズになりがち 人の言葉を過敏に捉えて怒ってしまうことがあります。 悪口などその時の勢いと感情に任せていってしまうときがあります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死してなお生きる
ご相談拝読しました。ご友人のご命終にお悔やみ申し上げます。
あなたとしても心残りのある形となってしまったのですね。
死はいつも思いがけない。でも誰もが実は死ととなりあわせで生きているのにそれに目を向けることができないのかもしれません。
あなたの今の思いはご友人の死からいただいた思いでしょう。ご友人は死んで終わりではないということです。死してなおあなたに働きかける存在としてあるのです。
もう姿形はない、声も聞けない、触れることもできない。でもあなたの中には確実にご友人がいるのです。
自己満足とはいいますが、ではご友人が生きていけたらはたして自己満足でなくご友人のために何かできたのか。そういうことができる私たちなのか。
ご友人があなたに会いたいかったのはたとえご友人にとっての自己満足であったとしても、それでもあなたに会いたかったのかもしれませんね。
あなたもたとえ自己満足だとしても、あなたがご友人に伝えたい思いとこれから向き合っていきましょう。
もうあなたにとってのご友人はあなたを離れていないのですから。
49日にとらわれる必要はありません。でも折を見て是非お墓参りをなさってはいかがでしょうか。
あれこれ考えるよりもまずは手を合わせてみませんか。
友人はお浄土にいます。
既にお浄土に往かれています。
どの場でも大丈夫ですから
お浄土がある西の方角に向かい
手を合わせお念仏を称えてください。
そしていろいろ話したいことを想ってください。
その想いはもう彼女に届いていますよ。
純粋な祈りは時空を超えて届きます。
初めまして、お早う御座います。
生きる全てが同じスタートラインに立ち、それぞれが描いて主人公を演じた人生と言う冒険旅行を歩み、そして・・全てが同じく辿り着く場所が彼岸(あの世)です。
私は、妻そして、その後にご縁があった方を震災で失いました。大切な人が亡くなる事は言葉では言い表せない、身も心も引き裂かれる苦しみや辛さです。大切な人の死から沢山の気づきを与えて頂き、それらは時空を超え・・こうして活かされています。
生きる全て。ペットも人間も亡くなったら終わりではありません。魂は、愛した人や友人、家族と共に過ごして想い出など共感をして・・一緒に我慢せずに思い切り泣いて・・そして、自然と涙が止まりそれぞれが、もう大丈夫・・・と思った時に新たな冒険旅行というストーリーを描き歩み出すのです。それが、四十九日なのかな・・と私は思っています。
ご友人様も、しがらみや苦しみ、辛さなど全てから解き放たれています。もう、苦しくはありません。あなたに対してもそうです。決して恨んだりなどはしていません。
純粋な心と祈りは、ご先祖様やご友人様に必ず届いています。お仏壇がなくても、それぞれが歩み出しても、手を合わせて祈れば・・姿や形は見えなくてもスッと隣に現れてその、祈る姿に微笑んで応えてくれるのです。
私たちの身体には、様々な繋がりがあります。何百年と歩んだご先祖様、父母、外を歩いている時に目の前を通り過ぎる人・・全ての人と繋がっているのです。そして、ご先祖さまや父母の願いや想いだけではなく生きた証が込められています。
お墓にお参りに行って、命の時間をお過ごしになられてください。ご友人様も待っているはずです。有難う!と、あなたを温かく迎えてくれます。そして、失っていたその時を取り戻す事が出来るはずです。あなたに託した事があります。ご友人さまの分も、あなたらしく仕合せに人生を歩んでください。惑わされず、大切な心を奪われず、笑顔で。笑顔で過ごす事こそが、ご供養になるのです。
あなたらしく、人生と言う冒険旅行を仕合せに歩めますように、お祈り致しております。
ご友人様に心から、南無大師遍照金剛。
合掌 礼拝
質問者からのお礼
答えていただきありがとうございました。
ここでいただいた答えにすごく救われました。彼女にたくさん話しました、2年間のこと、怒ってたこと、私にとってとても大事な友人だったこと。
まだ時折泣いてしまいますが、落ち着いたら御墓参りに行こうと思います。
ありがとうございました