主人に会いたくてたまらない
いつもお世話になっております、先月四十九日の法要が終わりとてもほっとした自分がいました、四十九日の法要がいかに大切かということがわかり素晴らしい1日になったと思っています。その後から仕事に復帰しました朝晩読んだことのなかったお経をあげることで1日がはじまり1日が終わります、朝お仏壇に行ってきますと言い帰ってきたらただいまという毎日、ふと思うんです最愛の主人はいつもどこにいるんだろうと、毎日うちで可愛がっていたペットたちと留守番をしてくれているのか、仕事中もずっと私のそばにいてくれるのか?今どこにいるのと毎日何度も思います、仕事の帰りは運転しながら毎日号泣してしまうのですが、そんなとき私の前を走っている車が主人と同じ車だったり信号待ちをしてるとびっくりするくらい大きくてきれいな雲をみたり飛行機雲がみえたりします、そんな時は主人が合図してくれてるんだと思うのですが、夕べは主人が生きててよかったって主人に抱きついている夢をみて目覚めるとやっぱりいないんです、たまらないです、すぐにお仏壇の前に座り私からは行くことはできないから、あなたが迎えに来て私の手を引っ張って連れて行ってと泣いてました、いま主人はどこにいますか?私の姿は主人から見えているんでしょうか?教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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故人は仏様として、私をいつも見守っておられます。
こんばんは。亀山純史と申します。
ご主人様がお亡くなりになりましたことに、お悔やみ申し上げます。
愛する人を亡くしてからの心の喪失は、四十九日、百ヶ日、一周忌、三回忌・・・といった仏事を月日をかけて執り行うことを通して、少しずつ癒されていくことと思います。ここで、少しずつ癒されていくと言いましても、それは決して故人を忘れていくことではありません。悲しみから少しずつ立ち直りながら、故人からの人生への問いかけ(「どうこれからの人生を生きて行けばよいのか」という問いかけ)に耳を傾け、故人と共に生きていくのです。なぜ、そういう生き方になるのでしょうか。それは、故人は仏様として、私たちのことをいつも見守っておられるからです。
中西智海和上様の詩に次ようなものがあります。
『人は去っても その人のほほえみは 去らない
人は去っても その人のことばは 去らない
人は去っても その人のぬくもりは 去らない
人は去っても 拝む掌(て)の中に 帰ってくる』
故人のほほえみ、ことば、そしてぬくもりは、いつまでも、私たちの記憶の中にあり続けます。そして、手を合わせることで、故人は私たちの心の中に、仏様として帰って来られるのです。
以上が私からの回答です。まだまだお辛い気持ちでの生活が続くことだと思いますが、少しでも、私からの回答がお役に立てれば幸いです。
いつでもそばに
もこ 様 相談ありがとうございます。
私は、あなたがご主人を思えば、いつでも傍に居ると思います。
ずっと見守っていると思います。
仏様の世界にいて、仏様と一緒に居て、あなたを見ているのです。
そして、あなたが思えば、いつでもそばに来てくれるのです。
夢に出てくるのは、ご主人が感謝を伝えに来たのでしょう。
そう信じてください。
「前を走っている車が主人と同じ車だったり信号待ちをしてるとびっくりするくらい大きくてきれいな雲をみたり飛行機雲がみえたり」という事も
あなたには特別に見えるのは、それでそのままに、ご主人からの合図(微笑み)と思っていいのです。
寂しさ、哀しさ、辛さのようなものが段々特別じゃなくなってきて、やがて当たり前のように、普段の生活をしながら、でもご主人を感じながら、笑顔も取り戻して、あなたは生きていけるでしょう。
そう思えるのがすぐ先か、1周忌の頃か、3回忌の頃か、私にはわかりませんが、ご主人の暖かさに包まれていることに変わりはありません。
ご主人の暖かさを感じながら、出会ったころから今日まで振り返ってみるのもいいかもしれません。愛情をとても深く感じた時、寂しさがそのままに明るさへ変化していくでしょう。そうしてあなたは自律していけるでしょう。
私はそう思います。
心の持ちよう、サポートします。またご相談ください。
一礼