自分と意見が違う人が気になり見てしまう。
初めまして。どこに相談したらいいのかわからなく、心のありようなので仏教がしっくりくるような気がしてこちらに相談します。
昔からすべての事に対して好き嫌いが激しく、自分に直接被害などがなくても嫌いな方の物に対してとても腹立ちを感じてしまいます。
基本的には嫌いだからといって何か行動するわけではなく、ただ思っているだけなのですが、たまに友人知人とお喋りしている時に、油断すると強い口調でその嫌っている人たちの事を話してしまいます。
逆に好きなことへの思いも強いので、そちらに関してもものすごくしゃべります。ふり幅が大きすぎると思うのです。
好きな物はともかく、例え自分のことを言われているわけではなくても、負の言葉を聞くと嫌な気持ちになったりしますし、悪口はいいものではないとは思っているのでやめたいし、そもそもその悪口のタネとなる、主義主張が合わない人のツイッターなどを見るもやめたいのですが、合わないとわかっているのに、気になってつい見てしまいます。
今は外出が出来ないのでネットを遮断すればいいのかもしれませんが、活動できるようになると、自分の活動範囲にそういう人がいるので必ず目に入ってしまいます。
どういう心を持てば、自分と意見の合わない人をわざわざ見に行ったりせず、悪口も言わないでいられるのでしょうか。この年齢になってわかっているのに自分をコントロールできないのは情けない話なのですが、今更だけど変えたい気持ちもあるのです。
何かアドバイスをいただければ嬉しく思います。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様のおはたらき頂いて下さい…
「あなた」は…『心安らかになることは聞きません。身を煩わせ心悩むようなことばかり聞きたがります。言わなくてはならないときには黙りこんで、言ってはいけないことをつい言ってしまう。大事なことは忘れてしまうが、どうでも良いことや、忘れてしまった方が余程ラクになることはいつまでも覚えている。人を傷付けたことは記憶になくても、人に傷付けられた…又そう感じたことは何十年でも覚えている。人にしてあげたことは忘れない、でも人からしてもらったことは記憶しようともしないから心にも残らない。一言御礼を言えばそれでもうお終い。人が成功したと思えば妬み、失敗したと聞けば笑みがこぼれる。メシウマ。御飯が美味しい…』
当たりですか。当たってますよね…だって、これが仏教が明かす「人」という存在の本質ですから。「あなた」とはあなたであり、そして、また私のことでした。
わたしはやること為すこと、言うこと思うこと全部が「真(まこと)」とは全く逆で、嘘・偽りばかりです。
仏様は、そんなあなたに変われとはおっしゃいません。変われと言われて少しばかり心の持ちよう変えたところで、2時間後にはどうなっているやら、イヤな人に出会ったら1分で…のわたしですから。
大事なことは、こんな何ともならんわたしの為に、仏様がどうあっても苦悩から解放してやりたいと願い続けて下さっていることを聞き、受け入れることです。
「どうあってもあなたを何とかする の仏様の強い願い」は、「仏に導かれなければ、どうにもならない このわたしという存在」と一対なのです。
こんなわたしの為に、何とかせねば、苦を抜いてやらねば とはたいて下さる仏様という存在を頂いて下さい。なぜ「仏」という、わたしに全く無関係と思える存在が説かれ、そのすくいがわたしに告げられたのか…。
それは今この私の為であった…と気付けたとき、そこに感謝が生まれます。「感謝の人生を生き抜いて欲しい」が仏の願いです。感謝の人生こそが真の人生となるからでした。
質問者からのお礼
覚城様
ご回答くださり、ありがとうございます。
読み始めてすぐには「なんでそんなキツいことを…」と一瞬思ったのですが、読み進めるうちに涙が出てきました。
今までの人生で辛い場面に出くわすたびに、なぜか仏教に近づいてみようと思ったのですが、そのたびに宗教に救いの手を求めるのは逃げのような気がして、ためらってしまっていました(宗教に帰依しなくても、平穏な心持で良く過ごしている人も沢山いるのに…というような理由で)。
しかし今回初めてこのような質問をして、覚城様の上記のようなお言葉をくださったこのタイミングだからこそ、単純かもしれませんが少し仏教に近づいてみたく思いました(どんな方法で近づいて行けばいいのかすぐには考え付かないのですが、それも探っていけばいいのでしょうか。)
丁寧なお言葉、ありがとうございます。