コンプレックスから嘘をついてしまった
学生時代私は勉強ができませんでした。一方でイラストを模写することや色を塗ることは、クラスメイトと比べて得意だったと思います。
勉強のできない自分にとってイラストはクラスの中にいるためのアイデンティティーだと感じていました。
それを担任の先生も見ておられたからか体育祭や卒業アルバムの製作を私に任せてくれたのです。
しかし模写すること色を塗ることができてもデザインを一から作ることはできなかったのです。
そこで私は別の誰かが書いた絵を自分の手で彩色し、一つの作品として提出してしまいました。
作品は好評を頂きましたがそれがとても苦しく、友人から「すごいね」と言われてもはぐらかすような返事しか出来ず、今でも後悔しています。
何よりみんなの思い出に残る作品を自分の虚栄心を守るために利用してしまったのではないかと後悔しています。
同窓会の際にあった友人からは「そういえば絵を描いてたね」くらいの言葉を聞くので、どうでもよいことなのかもしれません。
しかし私はこの後悔、罪悪感ととどう向き合えば良いのか分からないのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
理想と現実のバランス
こんにちは、初めまして。
ご自身の過去の行いについてお悩みのようです。
過去の質問も拝見しました。
あなたは、今回の質問に限らず、学生時代等の過去の出来事について思い出されて、後悔や反省をしておられますね。もちろん、自らを省みることは必要です。
しかし、コンプレックスから嘘を言ったり、プレッシャーから追い込まれて不正を行ってしまう。それは、あなたに限らず人間だからこそやってしまうことでもあります。次からはしない、そう決める。それで良いはずです。ではなぜ、それで気持ちが落ち着かないのでしょう。
あなたは、自分の中で<こうあるべき>という<べき>が強すぎないでしょうか。その<べき>にそぐわない過去をピックアップしては、す<べき>ではなかった。自分の過去として受け入れられない・・・。つまり、理想的な<べき>を先行して考えすぎて、現実の自分が常に置いてけぼりになる傾向はありませんか。
<べき>は大切です。
しかし、自分の現実から出発して物事を考える必要性も同じ分だけ必要です。
「後悔、罪悪感」を感じたならば、そうかこれが自分の現実か、じゃ次は少しでも<べき>に近づけたら良いな、そうしよう!、これで良いのです。
ご参考まで
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
過去の投稿まで振り返って、回答してくださり、とてもうれしいです。
ご指摘いただいた通り、常に過去の自分に悩み続けている気がします。現在の仕事においてもあれができなかった、これができなかった、と常にできない探しをしている気がします。
失敗をしてしまった自分が許せず、それにより人に迷惑をかけてしまう、怒られると思うと怖くて怖くて仕方がないのです。べきが先行して、前に進めなかったり、本来ないはずの壁にぶつかっていたような気もします。
罪悪感や失敗を忌避するべきものでなく、より良い自分の糧として受け入れられるよう努めたいと思います。
本当にありがとうございました。