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瞑想ではなく利他で悟れるでしょうか?

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昔、道を求めて様々な人と話をしました。
とある尼僧は『お坊さんでも悟っていない人もいる。一般人でも悟っている人がいる。しかしそれは2-3年程度。2-3年したら元の人間に戻る』とおっしゃっていました。これは本当ですか?一般人でも悟れるのですか?

とある行者は『あらゆる修行をしまくったが最も自己を成長させてくれたのは利他(ボランティア活動)だった。利他こそが修行である』『滝に打たれるのも激しい修行をするのも自分の為にするなら自己満足に過ぎなかった』と言っていました。

お坊さんとしての修行をしなくても利他をし続ければ悟りへ近づけるのでしょうか?

私事ですが、事情があって出家は出来ませんし、家でもできる坐禅や瞑想はとても苦手なんです。何度かチャレンジしましたが向いていないと感じています。
しかし、そうであっても(坐禅・瞑想が出来なくても)利他行だけで悟りに至れるのか気になって質問させていただきました。色々なお坊様の御意見をお伺いしたいです。よろしくお願い致します。

2020年5月13日 17:49

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご質問ありがとうございます。
私は悟っていませんので答えられないのですが、少なくとも利他行によって悟りに近づくということは正しいと解釈しています。ただし自利と利他は深く関係しているものですから利他だけに拘らずに自利も利他も行うのが良いと思います。
なお坐禅や瞑想はちゃんと信用できる師や先生に教わってくださいね。独学では間違えますからね。
また、悟りとは覚りとも書きます。目覚めるということです。あなたが今やるべきことが果たして悟ることなのかどうかということなど、広い視野で自分や物事を見ることも忘れないようにしてくださいね。
なお、心の中の慈悲に従って利他に専念していたら悟っていたということなら素晴らしいことですが、悟る為に利他を行うというのは少し動機が不純かなとも感じますね。決して悪いことでは無いのですけどね。
合掌

2020年5月13日 19:34
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おきもち


私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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ななしさん、こんにちは!

>2-3年したら元の人間に戻る』とおっしゃっていました。これは本当ですか?

仏教でいうところの「悟り」という状態は、難しい言葉でいうと、「因縁を離れている」というのを性質として持っているので、元に戻ったりするようなものではない、ですね。
つまり、悟りと呼ばれる状態が、条件(縁)によって成り立つような性質だとすると、その条件が壊れてしまえば、結果である悟りの境地も壊れてしまう、ということになります。薪が尽きたら、燃えている火も消えるように。仏教でいう悟りはそのような性質(無常)ではなく、たとえて言えば、すべてが燃え尽きた状態ですね。仏教の悟りの世界を表す「涅槃(ニルヴァーナ)」という言葉には、「吹き消す」という意味があります。

>お坊さんとしての修行をしなくても利他をし続ければ悟りへ近づけるのでしょうか?

究極的に言えば、そうも言えると思います。つまり、「利他」という行い自体も、「利他行」という修行の1つになりますね。ただ、悟りへ近づくという目的を真剣に考えるのであれば、世間でいう素朴な意味での「人のためになる行い」ということだけにこだるより、ある程度、師僧につくなり、仏教の教学を学ばれて、「利他とは何か?」ということを学ばれた方が、近道かなぁ…。
もちろん、ななしさまが必死に利他に励むという経験からも、その悟りへの智慧が開けてくる可能性は大いにあります。

>家でもできる坐禅や瞑想はとても苦手なんです。何度かチャレンジしましたが向いていないと感じています。

お、そこは心配無用だと思いますよ!利他の心を知り、実践する…という、この過程の中で、瞑想によって得られる心の状態にいたることも、できるからです。

私も、「瞑想がうまくいかないな~」と悶々としていたときも、お通夜で、遺族の方の涙をみて、自然と慈悲の心が湧いてきたり、衣をたたむときに、感謝の気持ちと共に、「今ここ」に集中するマインドフルネスな状態が訪れたりと、実践の中から瞑想の境地が得られるということは大いにあります。

ななしさまも、利他の実践をしていくと、ある日、足を組んで座っていく中で、自然と皆の苦しみが無くなるようにと、少しでも楽になるようにと心から願える日が来るかもしれません。そのように思うだけでも、それは立派な「利他行」です。心の行いが、最も要となります。

2020年5月14日 10:20
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おきもち


菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうにすばらしい教えだと思います。...
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利他行だけでは悟れないが、自行の助けにはなる。

もともとの仏教は瞑想によって悟りを得ることを目的にしていたのですが、今の日本の仏教の主流である大乗仏教はそれに加えて利他行を重視します。

今も上座部仏教では瞑想を中心にしていますね。

日本の仏教でいえば、念仏も禅も法華も一種の瞑想には違いなのですが、それより自行利他が重視されます。

自行が悟りを得る道なら利他行はその結果でもあり、また自行にフィードバックされる存在だとも思います。

2020年5月14日 10:32
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おきもち


浄土宗僧侶ですが、時宗の一遍上人と同じころ活躍した一向上人の流れです。 ...
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質問者からのお礼

お坊様方、ご意見ありがとうございます。
参考にさせていただきますね。

「悟りとは」問答一覧

悟りと諦めの違い。

以前自身の周辺環境の事を憂いてご相談させて頂きました。 父からの性的虐待や盗撮、 塾教師にされた暴行。 それに伴うメンタルの上下の事などです。 黙する事を決め、未だ家族には言っていません。 離婚した父をずっと恨み仕返しをしようと常に何かを考えている母とは少し距離を置き、 父を赦し自分は誰も恨まず、 過去は終わっていてもう今とは関係ないから大丈夫、 仏様は見ているし良い事をして自分が良くなる事に努めればいい、 と、一時期良い方向に物事を考えられるようになりました。 ブラック企業に未だ在籍、あい変わらず園長は理解できないですが、頑張って続けています。 今年度は信頼できる先生と組む事ができ静かに保育を学んでいます。 ふいに、自身の生育環境のアレや子どもに寄り添えない気持ちを相談したくなりますが、話してはいません。 話したところで事実は変わらず、自分の保育の姿勢への正当化にもならないからです。 自分が子どもが苦手であるという情報は、保育士には不利な情報であり、誰にも理解されないとも思っています。 諦めがついた、 怒りを隠せるようになったのか、 子どもに対しての姿勢は穏やかになれましたが、 未だ、やはり子どもが苦手であり、話しているだけ、接しているだけで心身ともに痛みを感じることが毎日のようにあります。 一時期体調を崩した際 独り言が出ていたのですが、 「なんで?どうして。」「助けて。」 という、自分の今までの何かや周りに対する疑問が出ている事が多かったのですが、 最近は 「痛い痛い」とひたすら不調を訴えるものに変わりました。 いずれ生き物である限り、人は皆無事死ぬし、浄土で救われる。 と思っているのですが、 最近の自分の心情は、 恨んだところで、怒ったところで何も変わらない、静かにしていれば、人に優しく穏やかにしていれば大丈夫、と思いながら、 心身ともに不調が続き、どこもかしこも痛みがあります。 子どもが光であるとも思えず、抱きついて私を刺してくる針のように感じ、また、子供を尊く思う保護者や教育者の心情にも寄り添えません。 子供が欲しい気持ちもなく理解ができず、孤独を感じます。 欲しくないとも言えません。 絶望のような、どこにも行けず、生きている限り地獄である、と思うような事もあります。 諦めと悟りの違い、どうすれば穏やかに過ごせるか、お力添えを宜しくお願い致します。

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無欲と悟りと病気の違いは?

近頃、さっぱりと欲が無くなってしまいました。 食欲がありません。食べてたまに吐き戻しています。 眠れません。薬を飲んで寝ています。 性欲はもとから少ないです。でも、人の温度は好きでした。今はなくても平気です。 買い物が好きでした。今は欲しいものがありません。 行きたいところが沢山ありました。今は近所のスーパーがやっとです。 未来にいっぱい、「欲しい」「やりたい」「こうなりたい」がありました。 自分一人の力でどうにかなるものは手に入れました。(アクセサリーなど) 自分一人の力ではどうにかできないものは諦めました。(友達、家庭など) ちょっと前までは悲しくて、不安で、仕方なかったんです。安定や、優しさがほしくてたまらなかった。 長い間いっぱい努力しました。でも手に入らないんだって気付いて、そうしたら憑き物が落ちたように、心が穏やか?になりました。 今は、人に迷惑をできるだけかけず、死ぬ準備を進めています。 世の中の全てが愛らしく感じます。私に縁が無かっただけで、素晴らしいものが沢山あると、本気で思っています。 これは悟りに近い感情なんでしょうか? それとも、薬の飲み過ぎで、頭がおかしくなってしまっているんでしょうか?

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悟りとは..............?

こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。

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執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

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