相談じゃないかも
昔虐待されてて
それ以来人信じられなくて
恋人も恩人も一緒に住んでた人も
結婚も子供もいいよっていってくれた人もいたけど
優しい人達ばかりだったけど
誰一人信用しなくて
皆でお出かけしたり遊んだり
自分で色々やってみても
楽しいなと思える事がまずなくて
6歳くらいから死ななきゃなーと思ってるけど死ねないし
色々相談したり入院したり恋愛したり修行したけど変わんなくって
ずっとこの生き方だし他を知らないから劇的に困ってはないんだけど
なんか
ずっとこのままなのかなあ
死にたいけど死ねなくて
優しい人も好きになってくれた人も信じられなくて
好きな事もなくて優しい人達にもただ合わせて笑う事しかできなくて
なんかそう、うん、凄い困ってるわけじゃないんだけど
なんかこのままずっと死ぬまでこのままで
こうして死ぬのを待つ生き方しかできないのかなーって
思ってついハスノハに投稿しちゃった
タイトル通り相談じゃないかも、ごめんね
誰かに聞いて欲しかったんだ
読んでくれてありがとう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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こちらこそありがとう
相談じゃなくてもかまいません。お気持ちをお聞かせいただきこちらこそありがとうございます。
虐待の経験を引きずっておられるのですね。お辛かったことでしょう。そんな言葉でな私の何がわかるの?という思いもあることでしょう…。
それでもあなたはこうして生きて来てくださったのです。本当にありがとうございます。
あなたが「誰かに聞いて欲しかったんだ 」と相談じゃなく一方的にでもこうして思いを綴ってくださったことはあなたにとって意味があるように、虐待の経験と向き合う意味は一方的にでもいいので虐待をしてきた相手にあなたの思いを伝えるところにあるかもしれまません。
それはどんな修行よりも辛いかもしれません。思ったようなリアクションも得られないかもしれません。それでも自分自身にとって大きな意味があるのではないでしょうか。
「なんでこんなことしたんだ。なんできちんと愛してくれなかったのだ。私は愛されたかった。」
と伝えたことはあるのでしょうか。もしそうでないなら手紙でもメールでも対面でもいいのでいつか出来るといいのかなと感じます。
誰かを信じるとは誰かのことがわかるようになることではなく、わからなくとも委ねられる様になることです。
あなたの場合は委ねるしかなかった相手に酷い事をされたのですから中々それが難しのは仕方ないことなのではないでしょうか。でもこれからもずっとそうできないわけでもないと思うのです。
虐待の相手と、あるいは虐待という行為と、あるいは何らかの自責と、精神的対峙を通して決別ないし昇華が出来た時、段々と他者に委ねられることができるようになるかもしれません。自他ともに不完全な存在であることを認められるようになるかもしれません。
ここhasunohaでは無理にあわせて納得することも感謝することも必要ではありません。
あなたの思いをそのまま綴ってください。またいつでもお聞かせくださいね。
お話し下さいね
拝読させて頂きました。
あなたのお気持ちをお聞かせ頂き、あなたの思いが伝わってきました。
そうですね、このままどうなんだろうって考えてしまいますね。
よかったらあなたの思いをつらつらとまた書いてみて下さいね、そして教えて下さいね。
あなたはここでも私達とも、或いは画面の向こう側には沢山の人がいて、その方々とつながっています。
ひとこと一言でもその思いは伝わっていきます。
様々思いめぐらしたことや感じ取ったこともあなたのペースでお話しくださいね。
あなたをいつも待っていますね。