この世の残酷な事について
質問の前に一つお坊さんの皆さまに感謝を申し上げます。
自分はここ数年の間、生きる目的を見失い、心の中でずっと死を望みました。時には誰かを傷つけたいと思いました。そこで何度かここにお邪魔して、お坊さんの皆さまに質問をしました。皆さまのアドバイスを何回も見返して、何度も自分で考えました。
自分の周りと自分自身の変化、そしてお坊さんのお言葉もあり、完全ではありませんが今はとても精神的に楽な気持ちになり、他人に対しての優しさを取り戻せました。
ここで感謝を申し上げます。ありがとうございます。
しかし、また自分の力だけでは拭えない悩みが出てきました。また皆さまの御力をお借りしたいです。
では本題に入ります。
様々な人間の残酷な事についてです。
動物、女性、幼児虐待。誘拐、人身売買など、自分の価値観や考え方では到底許せない事がこの世の中に溢れかえっています。
今までは自分は意識しないで生活をしてきました。しかし、あるニュースを見てしまいました。
数年前に誘拐された少女が現代まで生きていた。が、その少女だった女性は山に裸で捨てられて死んでいたという事件でした。
自分にとってとても衝撃的なニュースでした。
特に誘拐された女性の両親の絶望、それを考えてしまうと自分も身内になったかのように非常に悲しみ、怒りを感じてしまいます。
そしてそのニュースを見て以来、こんな事をずっと考えています。
こうやって自分が今、平穏の中で暮らしている間、常人では考えられない程の苦しみを味わっている人がいるのではないか。
この考えがずっと心の中をモワモワして漂っています。時にはそれが大きくなって眠れなくなったりしました。
その事に対して自分でできる事はあまりにも無力。その事から外にいる人間。しかし、無力だからと言って今にとても苦しんでいる人を助けたい。けど助けられないという、一瞬の思考のループができてしまいました。
そこで2つ質問です。
この世の中で起きている残酷な事に対しての心構え、見解。そしてこの世での救いはあるのか。
またお坊さんの御力が必要になりました。
どうか皆さんの意見を自分にお聞かせください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「無力」ではありません
こんにちは、初めまして。
これまでのハスノハでの回答がお心の支えとなったようで何よりです。過去の回答僧のみなさんもお喜びでしょう。私は、ご縁があって初めて回答しますが、参考になれば幸いです。
お礼の返信は、その都度自分が感じた範囲でいいので送ってくださった方が回答する側は助かります。未完成でもいいから、そのままを気軽にレスポンスして下さい。
「この世の中で起きている残酷な事に対しての心構え、見解」とのこと。
私も、凄惨な事件、事故については時々耳をふさぎたくなることがあります。質問には「誘拐」について詳しく述べられていますが、「動物、女性、幼児虐待。誘拐、人身売買など」、あなたと同様に胸を痛めています。
ただ、このような出来事は、人間が居る限り起きてしまうというのが私の見解です。人間は善悪様々な意思をもって日々生きており、その意思がぶつかり合ってつぎの意思が生み出される(因縁)という複雑な仕組み中に生きています。人間みんな裁判官という言葉がありますが、私情で、自分ルールで裁く人が人の数だけ居る、それが実情だと思います。
しかし、この時に大切なのは、私もあなたもその裁判官の一人だという事実です。あなたはそう考えていないと思いますが、自分だけ例外で、他の人だけが問題であるという捉え方をするとこれは現実を反映していない考え方になってしまいます。
「この世での救いはあるのか」との問われています。
「救い」という意味が曖昧ですが、あなたの文面からは恐らく上記のような痛ましい出来事をなくすことが出来るか、ということに相当するでしょうか。
あなたは、「自分でできる事はあまりにも無力。その事から外にいる人間。しかし、無力だからと言って今にとても苦しんでいる人を助けたい。けど助けられないという、一瞬の思考のループ」に陥っていると言われています。
なぜループするのでしょう。
それは自分が「無力」だと決めて掛かっているからではないですか。
あなた一人がどれだけ粉骨砕身しても、全ては無くせないでしょう。
でも、あなたが一人でも助けられたらどうでしょう。
私も、あなたも、そして隣の人も・・・。
それは大きな輪になっていくのではないでしょうか。
映画「ペイ・フォワード」はご存知ですか。
一人の善意が大きな輪になっていくという筋です。
良かったら見て下さい。
ご参考まで
奪い合えば足りないが、譲り合えば余る
何人かでお皿に山盛りのお菓子を食べているとします。最後の1個になったとき、幼い子供たちだったら「それ僕の!」「私の!」と喧嘩になります。
大人なら、「どうぞ食べてください」「いえいえあなたが食べてください」と譲り合います。
奪い合っているときには、ラスト1個では足りない(他にも欲しい人がいる)が、譲り合っているならラスト1個がいつまでも余っていて不足はありません。
もしも私たちが、ほんの少しずつでも自分の欲・怒り・怠け・プライドを制限して他人のために譲り合うなら、その分、残酷な被害を受ける他人は減ります。
そのためには、知性・道徳が必要です。
小さい子供や動物にはない知性、仏様の説く智慧が広まれば、残酷な事件も減るはずです。
自分の欲や怒りより、他人を傷つけないことを優先すれば。
カマキリなんかは、交尾直後にメスがオスを食べちゃうこともある。
オス猫は、メスを発情させるために、メスが連れている子猫(他のオスの子)を皆殺しにする場合がある。子を失ったメスは再び恋愛モードになる。
人間でもたまに、自分の子供よりも交際相手を優先し、再婚相手からわが子が虐待されていても見て見ぬふりをする事件もあります。
食肉にされる家畜、蚊がいなくなるスプレーでついでに殺される小バエ(血を吸わないのに!)。
ほんの少しだけ、みんなが優しくなれば、殺される蚊の数が減るでしょう。
ゴキブリも叩かず、チリトリでつかまえて窓から捨てれば、助かる命がある。
そんな感じで、野性動物にはない人間ならではの知性により、社会に慈しみが増えればよいですね。
質問者からのお礼
御言葉ありがとうございます。
私自身も様々な事に関しての当事者の一人である視点が欠けていました。
人がある限り目を瞑りたくなるような事はなくならない。しかし、人は知性や理性があり、他人に対して優しくできるゆういつの力もある。
そして非力である自分にも、少なからず誰かを平穏にできる。無力ではない事を心に留めていきたいと思います。
出来るだけ理不尽な目に遭う人を少なくするために、大きな輪を作るために自分は見える範囲、周りの人を大事にする小さな輪を作ることを心がけようと思います。
今回もとてもタメになりました。ありがとうございました。