煩悩について
お世話になっております。
浄土真宗では煩悩をどう捉えているのでしょうか。
煩悩を自覚することで慚愧し、内省するのですよね。具体的に、慚愧とはどういうことなのでしょうか?
例えばですが、僕も男(人間)ですから性欲というものはありますが、性に関する煩悩を自覚した時には性欲をどうするのですか?消そうと試みるのですか?(煩悩を否定的に捉える)まあ、いいやと開き直るのですか?(煩悩を肯定的に捉える)その辺がよく分かりません。
ちなみに、煩悩を消そうと試みる場合は、それはもはや「菩薩」という概念になってしまうように思います。
また、仏教においては分別心があればそれは煩悩ですよね。好き嫌い、善悪、優劣など。
しかし、そういうものに関しても慚愧するのでしょうか?僕達は人間ですよ。嫌いな人もいれば、好きな人もいます。そもそも、「好き」という感情が無ければ恋愛さえできないのではないですか。
僕はまだ学生ですが、将来仕事する時にも良し悪しを判断しなければいけない。もちろん、世間的(主観的)な善悪に過ぎませんが。でも生きていくためにはどうしても必要な判断ですよね。なので、人間の知恵も大切だと思うのですが...。
詳しい方、回答お願い致します。
南無阿弥陀仏
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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要点は「慚愧」ではなくご信心
こんにちは。
これまで何度か御縁ありましたね。
紆余曲折ありながらも、お念仏の道を正面から考えられるお姿を嬉しく思います。
お念仏の朋(とも)たるあなたに、私の見方を述べます。
以前も同様の質問をされていますね。
「慚愧」とは、「慚」が身(体)・口・意(心)に悪業(行い)を省みて自分自身に恥じること、「愧」は同様の悪業を省みて他者に対して恥じることです。何れにせよ、仏様に促されて自分に、他者に恥じ入っていく心のことです。
親鸞聖人は、無慚無愧の我が身、と仰ったことです。
つまり、自分は省みて恥じるけれども、根底的に自己肯定を止めない浅はかさがどこまでも残るという洞察をされているのです。「慚愧」したから、自分は悪業を止めて、一転善業を重ねて功徳を積んで成仏道まっしぐら・・・、そんな簡単な構造ではない、ということを見抜かれたのです。
あなたは、4月27日の質問に「煩悩即菩提は、よく懺愧の心から起こると聞きます」と書いておられますが、私は違和感を感じます。
「懺愧の心」を深める自己努力
↓
不断煩悩得涅槃の理屈が分かる
親鸞聖人が正信偈で「不断煩悩得涅槃」とお書きです。
これは、本質的に「懺愧」どころか自己肯定を決して止めない衆生を哀れんだ阿弥陀様が、涅槃と全く遠いところにいる衆生を往生成仏へと引き上げてくださったというご信心と報謝の思いから説かれています。これは、決して自分の努力や、自分の心の調節によってその道理が分かるというものではありません。その意味でやはり、真宗はどこまでいっても、ご聴聞とご信心こそが大切です。
「性欲」「恋愛」というところを例として挙げられていますが、これに限らず人間の行いに悪業ならざるは無いのです。また、これを止めたりするということも出来ないのが人間です。
その衆生が、阿弥陀様のお心の内あることを感謝しながら、必要以上に貪らない、欲をかかない、自己中心さを少しでも慎んでいけたら、そういう風に整理していただけたらと思います。
ぜひ、これからもご聴聞を続けられて下さい。
ご参考まで
ー追記ー
お礼コメントありがとうございました。
真剣なお心が伝わってきて、とても微笑ましく思っております。
字数制限がありますので、簡単に。
「阿弥陀様のお心」とは、ご本願のこと、「懺愧」が出来るか否かに関わらず救う、ということです。
質問者からのお礼
釋悠水様、回答ありがとうございます。以前にも回答をいただきました。
釋様の回答を見させていただくと、自分は何だか「いい人」になろうとしていたのかもしれないと思いました。
最近では、無分別が大切だと考えるようになり、虫や態度がでかい人を見ると、「無分別。全ては等しい」と自分に言い聞かせていました。しかし、実際分別をしないというのは、無理でした。
どうしても深層心理では分別をしてしまいます。汚いもの汚いし、嫌いな人はやはり嫌いなのです。
変な経験ですが、大人を見ると緊張したりするのに、子供に対しては緊張しない、というのもある意味では無意識で慢心があるからではないか、と考えたりしています。
釋様のおっしゃる、「阿弥陀様のお心」とは具体的にはどういうことなのか、よろしければ教えてくださいませんか?
追記回答ありがとうございます。慚愧をするか否かに関わらず救うというのは、とても尊いことですね。
ありがとうございます。