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煩悩について

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有り難し有り難し 9

お世話になっております。
浄土真宗では煩悩をどう捉えているのでしょうか。
煩悩を自覚することで慚愧し、内省するのですよね。具体的に、慚愧とはどういうことなのでしょうか?
例えばですが、僕も男(人間)ですから性欲というものはありますが、性に関する煩悩を自覚した時には性欲をどうするのですか?消そうと試みるのですか?(煩悩を否定的に捉える)まあ、いいやと開き直るのですか?(煩悩を肯定的に捉える)その辺がよく分かりません。
ちなみに、煩悩を消そうと試みる場合は、それはもはや「菩薩」という概念になってしまうように思います。
また、仏教においては分別心があればそれは煩悩ですよね。好き嫌い、善悪、優劣など。
しかし、そういうものに関しても慚愧するのでしょうか?僕達は人間ですよ。嫌いな人もいれば、好きな人もいます。そもそも、「好き」という感情が無ければ恋愛さえできないのではないですか。
僕はまだ学生ですが、将来仕事する時にも良し悪しを判断しなければいけない。もちろん、世間的(主観的)な善悪に過ぎませんが。でも生きていくためにはどうしても必要な判断ですよね。なので、人間の知恵も大切だと思うのですが...。
詳しい方、回答お願い致します。
南無阿弥陀仏


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

要点は「慚愧」ではなくご信心

こんにちは。
これまで何度か御縁ありましたね。

紆余曲折ありながらも、お念仏の道を正面から考えられるお姿を嬉しく思います。
お念仏の朋(とも)たるあなたに、私の見方を述べます。

以前も同様の質問をされていますね。

「慚愧」とは、「慚」が身(体)・口・意(心)に悪業(行い)を省みて自分自身に恥じること、「愧」は同様の悪業を省みて他者に対して恥じることです。何れにせよ、仏様に促されて自分に、他者に恥じ入っていく心のことです。

親鸞聖人は、無慚無愧の我が身、と仰ったことです。

つまり、自分は省みて恥じるけれども、根底的に自己肯定を止めない浅はかさがどこまでも残るという洞察をされているのです。「慚愧」したから、自分は悪業を止めて、一転善業を重ねて功徳を積んで成仏道まっしぐら・・・、そんな簡単な構造ではない、ということを見抜かれたのです。

あなたは、4月27日の質問に「煩悩即菩提は、よく懺愧の心から起こると聞きます」と書いておられますが、私は違和感を感じます。

「懺愧の心」を深める自己努力

不断煩悩得涅槃の理屈が分かる

親鸞聖人が正信偈で「不断煩悩得涅槃」とお書きです。

これは、本質的に「懺愧」どころか自己肯定を決して止めない衆生を哀れんだ阿弥陀様が、涅槃と全く遠いところにいる衆生を往生成仏へと引き上げてくださったというご信心と報謝の思いから説かれています。これは、決して自分の努力や、自分の心の調節によってその道理が分かるというものではありません。その意味でやはり、真宗はどこまでいっても、ご聴聞とご信心こそが大切です。

「性欲」「恋愛」というところを例として挙げられていますが、これに限らず人間の行いに悪業ならざるは無いのです。また、これを止めたりするということも出来ないのが人間です。

その衆生が、阿弥陀様のお心の内あることを感謝しながら、必要以上に貪らない、欲をかかない、自己中心さを少しでも慎んでいけたら、そういう風に整理していただけたらと思います。

ぜひ、これからもご聴聞を続けられて下さい。

ご参考まで

ー追記ー
お礼コメントありがとうございました。
真剣なお心が伝わってきて、とても微笑ましく思っております。

字数制限がありますので、簡単に。
「阿弥陀様のお心」とは、ご本願のこと、「懺愧」が出来るか否かに関わらず救う、ということです。

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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

釋悠水様、回答ありがとうございます。以前にも回答をいただきました。
釋様の回答を見させていただくと、自分は何だか「いい人」になろうとしていたのかもしれないと思いました。
最近では、無分別が大切だと考えるようになり、虫や態度がでかい人を見ると、「無分別。全ては等しい」と自分に言い聞かせていました。しかし、実際分別をしないというのは、無理でした。
どうしても深層心理では分別をしてしまいます。汚いもの汚いし、嫌いな人はやはり嫌いなのです。
変な経験ですが、大人を見ると緊張したりするのに、子供に対しては緊張しない、というのもある意味では無意識で慢心があるからではないか、と考えたりしています。
釋様のおっしゃる、「阿弥陀様のお心」とは具体的にはどういうことなのか、よろしければ教えてくださいませんか?

追記回答ありがとうございます。慚愧をするか否かに関わらず救うというのは、とても尊いことですね。
ありがとうございます。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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回答数回答 4

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