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仕事を休んでしまいました。

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私は動物病院で獣医師として勤めています。
まだまだ新米で、未熟者です。

若いAHT(動物看護師)さんとは普通に話せるのですが、ベテランのAHTさんは苦手です。
いつも怒られています。
私が至らないのがいけないのですが、最近では「おはようございます」「お疲れ様です」などの挨拶にも応じてくれない事が多くなりました。

女性ばかりの職場で、院長の見ていないところでは陰口なども多いです。
私もいろいろ言われている事でしょう。
院長はそういう事が嫌いな人なので、院長がいる所で言う人はいませんが…。

職場がツラく、今日は職場の前まで行ったのですが、どうしても中まで入れず、ついに仕事を休んでしまいました。
今日は院長が休みだったので、いつもより心細かったのです。

病欠の扱いにしてもらえましたが、この職場は辞めたくないのです。
もう二度とこんな理由で休みたくないのですが、どうすれば、勇気を持って出勤できるでしょう?

ベテランAHTさん達と上手くやっていく方法も知りたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

辛いですよね

上司や同僚と馬が合わない、これはかなり辛いことですね。実は、ボクにも経験があり、一時は「死んだら楽になるかもしれへんなぁ・・・」などと、とんでもないことを思ったこともありました。

そういうとき、誰もがたいがい主観視点でしかものを見ず、また考えていないものです。そういうときには、想像力がどんどん欠落し、思考は悪い方へ、逃げる方へしか向いていきません。

では、どうすればよいか?

一番リラックスした状態で想像力を駆使し、まず自分、そして自分を取り巻く状況を客観視してみてください。そして、その状況の中で自分以外の人々の立場や思いに立ってみてください。すると、ある程度は上司や同僚の方々の言動の原因を垣間見ることができるかと思います。

その原因の中には、ひょっとして自分にとって好ましくないものも含まれているかもしれません。しかし、そこに目を背けずに、真正面から向き合ってみましょう。

案外、人の言動は単純なことも多く、あなたが思っているより些細なことが原因かもしれません。だとすれば、自分の言動をほんの少し変えるだけで状況が変化する場合も多いと思います。

たとえば朝、出勤されたときの挨拶でも「おはようございま~す」と言っていたり、ちょっとしたお礼の言葉を「ありがとございま~す」と言っていたりするところを、「おはようございます!」、あるいは「ありがとうございます!」と、笑顔を添えて言い換えてみるなど。

まずはリラックス、そして想像力、客観視、お試しください。

合掌

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有り難し
おきもち

真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いです。また、ボク自身も勉強させていただければと思っております。よろしくお願いします。

くおーん (/_;)

動物ならばわかる。人間も動物だもの。
人間だからこそ分かる。人間の持つ動物的直観。
相手が嫌っていれば分かります。こちらが嫌っていても相手には分かります。
コトバばかりで会話しているわけではないからです。
あなたは自分の思いに負けていると思います。
自分が作り出した職場のイメージ、自分の職場に対する拒絶感、自分の苦手な相手に対するロス感情、ネガティブ意識、自分が虐げられるのではないかと恐れるマイナス思考、不安感。
これらって、よくよく考えてみてください。
責任を外に求めずに、自分の物の考え方に求めるべきです。
それは変えられます。
ぜんぶ、あなたの、自分の思いです。
相手に自分の思いを重ねていかない習慣を持ちましょう。
あなたは自分の思いという首輪に縛られていますね。
さて、挨拶してくれないのは無視なのか、関わりたくないだけなのか、あなたがボソついているのか、相手の耳が遠いのか。
もし、意図的に無視するような相手であれば、あなたばかりがイケないわけではありません。
コミュニケーションは続けるべきです。挨拶してくれなかった、で終わっているから相手の術中にはまるのです。無言のパワハラならば、あなたが主体的になるべきです。
「いつも、挨拶してくださらないのは何か理由があるのでしょうか。もし私に非があるのでしたら改めますのでご指南いただけないでしょうか。」なんてね(^-^)
終わり、は持たないことです。継続、セカンド、ネクストを持ちましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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