乞食と喜捨に関する考え方
こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。
私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。
お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。
…しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。
「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。
私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。
ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。
連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。
しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。
ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。
人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね)
そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。
長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。
こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう?
わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。
支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
周囲の理解を得るということはなかなか難しいかもしれません
ご質問有難うございます。
拝読させていただきました。
托鉢や乞食に施しをするということは、大変すばらしい行為ですね。
しかし、周囲の理解を得るということはなかなか難しいかもしれません。
なぜならば、托鉢や乞食に施しをするという行為は、「陰徳」を積むという行為だからです。
徳には、陽徳と「陰徳」がございます。
「陰徳」とは、誰にも見られず、言わず、知られないというのがポイントです。
周りの方に理解を得たい、認められたいというお考え方は、誰にでもあるものですが、そこはきっぱり水に流すようにされてはいかがでしょうか。
「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」というお考えは、まさに仏教の考え方そのものだといえます。
仏教には、「悪いことをせず、良いことをしていきましょう。それが自分の心を清めますよ」という考え方があるのです。
また論点が変わってしまうかもしれませんが、「とく」という行為には、「得」と「徳」があります。
簡単にいってしまうと、
「得」というのは、目に見える行為
「徳」というのは、目に見えない行為
煩悩まみれさんの行っている行為は、両方に当てはまるわけなのですが、お連れの方のお考えは前者。
たとえどんなに少額のお金であっても、人が喜ぶ行為ですので、それは喜捨という「徳」の意味合いが強いように思えます。
ちなみに僧侶は、乞食と紙一重です。
乞食のもともとの由来は、修行僧が道端で施しの食べ物やお金をいただく行為。
そもそも僧侶は、働かずにして生かされています。
ご質問に添うお答えではないかもしれませんが、私はこのように考えております。
何かのお役に立てられれば幸いです。
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ご返事有難うございます。
見られたらいけないのですが、見られてしまったら、
「見られてしまった」
と考え過ぎるのも、苦しみの原因になってしまいます。
よい案配でお考えられたら幸いです。
むつかしい法則がある布施を簡単におこなう
布施には、その功徳の大きいものから小さいものまでいろいろあります。しかし、どんな布施でも、偽善でおこなっても、布施行為自体は間違いなく善行為です。自分の欲を捨てる喜捨の気持ちは必ず含まれています。
布施の功徳の大きさには法則があります。たとえば、布施をする相手は、徳の高い人の方が功徳が大きくなります。しかし、悪人に布施しても、動物に布施しても、それに倍するほどの功徳があります。
それと別に、困っている相手、命の危険があるような相手に布施をする功徳は、相手の徳とまったく別で、大きくなります。
布施するこちらにも功徳の大きさに違いがあります。まず金品は、盗んだものをあげるのでは功徳は小さいです。自分がしっかり稼いだ中から一部をあげるのは功徳が大きいです。
布施する気持ちによっても功徳が変わりますが、これは、本当にむつかしいです。一回の布施行の中に、さらに、後から思い出す中でも、満足感や不満感などいろいろな気持ちが出てきますから、その一瞬ごとにも、功徳や後悔=悪徳が生じるのです。
感情だけでなく自分が納得して無理ない範囲で布施するのが後から思い出しても満足感が得られやすいです。
周りの人が嫌がるなら、その人のいない時にこっそりやってもいいですが、その人にも納得してもらって同じ気持ちでやると、功徳が倍になります。自分が布施の功徳を周りの人に廻向(えこう:あげる)することになり、しかも、相手がそれを随喜(ずいき:受け取る)することになるからです。
ちなみに、托鉢は、パフォーマンスや偽善の気持ちを含んでいても、ただ金品を得るためではなく、僧侶にとっては修行の一環です。しかも、明治の廃仏毀釈のとき、十年間、托鉢が禁止されていました。その後復活したのですが、そのときには托鉢は、もはや日本では当たり前の光景ではなくなりました。
本物のお坊さんでも偽物の乞食でも、やっているだけ、仏法がまだ日本から消えていないことにもなると思います。正法に対して像法というか、本物の仏陀に対して仏像とか、その程度の価値はあると思います。
十五年ほど前に『功徳はなぜ廻向できるの?』と『お布施ってなに?』(両方、国書刊行会)という本を書きました。ご参照くださいますと幸いです。
質問者からのお礼
藤本様、太田様、お二方とも丁寧かつ素早いお返事ありがとうございます。
藤本様
「本物のお坊さんでも偽物の乞食でも、やっているだけ、仏法がまだ日本から消えていないことにもなると思います。」
このお言葉で目が覚めました。かなり俗っぽい言葉になってしまいますが、「だってここは日本だよ」と連れに言えばそれで解決出来そうです。
なにも私が仏教的な、それこそお坊さんが行う説教のような切り口で友人を納得させる必要はありません。なのに、相手が僧侶の格好だからなんとか仏教的に、とどうやら考え方が頭でっかちになっていたようです。
太田様
なるほど、「むしろ知られる、理解される機会はない」くらいの方が良いのですね。
陽徳と陰徳、全く知らない言葉でした。
誰かと一緒に居る時には「見られるべきものではないのに見られてしまった!」と思うようにします。それだけで自然と角が立つような言い回しをしなくなる気がしますので。
とくにも得と徳があるということもまた知りませんでした。勉強になります!
お二方とも、有り難いお話をお聞かせくださり、本当にありがとうございました。