先代猫の供養について悩んでいます。
先代猫の命日が近づき、気鬱になっています。私は彼女にたくさん救われたのに、最期には癌闘病でとても苦しい思いをさせてしまったと今でも後悔してもしきれません。
特定の宗派、懇意にしているお寺などはないのですが、数年前から命日にお寺で写経をしています。そのお寺はふらりと誰でも寄ってよいところで気が楽でした。
命日の写経のお陰か、悲しみや後悔が毎日毎晩続くのではなく命日前だけになり、この命日をどう過ごすかで一年のメンタルが変わる大切な日になりました。
ですが今年は疫病でどのお寺もしまっており、どのように気持ちの整理をつけてよいのかわかりません。自宅ではまだ元気でやんちゃな猫もおり、写経などとてもできる環境ではありません。
疫病で法要など延期している方々がいるのも重々承知の上で、それでも何か区切りをつけないと今年も前に進めません。最善作を考えてもわからず堂々巡りでとても苦しいです。
このような時に檀家であれば何か策があるのかもしれませんが、ふらふらとさまよってここにたどり着きました。今の私には何ができ、どう乗り越えるべきなのでしょうか。判りません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「ご命日」とは
ご相談拝読しました。
大切な存在が亡くなった日の事を「命日」と言いますね。亡日とは言いません。
「命日」は「命(いのち)の日」ですが「命じられる日」でもあります。「命令」の「命」ですね。
命じるのは亡き存在です。何を命じるかというと「あなたの命はどうなっていますか?」と問うてくださっているのです。「命令」という強いはたらきかけを亡き存在からいただく日がご命日。
そうであるならば、その悲しみや後悔や不安は亡き存在からの大切な呼びかけであり促しであるのではないでしょうか。
先に命を終えていった存在が、残された同じく限りある命を生きる存在にその生の意味を問う。そのはたらきに遇うならば命は命終で終わりではありません。ずっとはたらきとして共にあるのです。
私たちは縁によって生まれ、縁によって生き、縁によって死んでいきます。その生き様や死に様は思う通りになりません。
癌で辛い闘病の期間を過ごしたようですがそれも縁なのです。あなたのせいではありません。あなたと楽しく幸せに過ごした時間も縁、癌の時間も縁なのです。
自分にとって都合の良い縁だけを見たらいいという話ではありません。すべての縁を平等に見るのです。共にすごした全ての時間を通してこれからもその猫ちゃんに遇い続けていってください。
さて、ご命日の写経が供養として心の落ち着きの効果をもたらしていたご様子。確かにそうしたことはあるのでしょう。
何らかの儀式や形式が心の区切りや整理に影響するのですね。今は状況的に難しい面もあるでしょうから、ご自宅にお仏壇を設けて手を合わせて線香をあげるというのが現実的でしょうか。
何も行事や法要はなくとも自由にお参りできるお寺を見つけてお参りだけしたり、本堂内に入れずとも外で手を合わすというだけでも少し違うでしょうか。
何かできる範囲で形として行動するのはもちろんよろしいですが、根本的にはあなたの中の後悔や死へのイメージに向き合うことが大切に思います。
終末期の在り方でのみ命を見るのでなく、生まれてから最後まで、あるいはそもそも生まれるという奇跡、そして出会うという奇跡をも含めて命と向き合っていきたいものです。
大切な「ご命日」をお迎えください。
合掌
質問者からのお礼
お礼を時間をかけて書いたのに反映されていないようで凹んでしまいました。
ハスノハにたどり着けたこと、回答していただけたこと、それも縁なのでしょうか。
回答していただけた、それだけで「違い」ました。少し心が楽になりました。
命じられた日、という単語もずしりと響きました。ありがとうございました。