猫をひいてしまいました回答受付中
夜、道路で猫をひいてしまいました。
気づいた時、咄嗟に避けようとしてハンドルを切ったのですが猫も同じ方向に動いてしまい、ブレーキを踏む間もありませんでした。
運転していた時スマホを手に持っていました。スマホを見ずにもっと前方を注視していたらもっと早く気づけたかもしれません。
ああやってしまったと思ったのに、怖くてすぐに確認せずそのまま元々の目的地に向かってしまい、冷や汗や動悸や自責の念に駆られながらも頭の中で帰りはこの道は通らないようにしようなどと考えてしまいました。
なぜ私なのか、毎日死にたいと考えている罰なのかと、神様なのか運命なのかどちらに対するもよなのか、恨みすら湧いてしまいました。
自分の用事を終えたあとに、このままではダメだと思い一度家に帰って家族に同行してもらい、ダンボールとバスタオルを持って亡骸のもとに戻り、連れて帰ってきました。抱き上げた亡骸はまだ暖かかったです。
近所に動物の供養をしてもらえるお寺があり、明日の朝伺う予定です。
自分が命を奪ってしまったことも、その時の思考、行動も怖いです。法律で罪に問われないだけでとんでもないことをしでかしたのに、人間だったらどうなっていただろうかなどと考えてしまったことも怖いし、そのままにしておく人も多いのに自ら向き合いえらいねと家族に言われたことも腑に落ちません。えらいわけがないです。
家族は、こういうときはごめんねと思わずに成仏してねと願うんだよ、と言いますが本当でしょうか。
わたしはどのような気持ちでいるべきでしょうか。
なんの償いにもなりませんが、しばらく供養をしていただくお寺には通うつもりです。こうしてここで相談して心を軽くしようとしているのも卑怯で、本当に申し訳ない気持ちです。
お坊さんからの回答 2件
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生きるということは、他の命を犠牲にして生きていること
ささこさん、こんにちは。
猫をひいて死なせてしまったのですね。まずはあなたが大事故にならず良かったです。きちんと持ち帰ってお寺で供養されるのであれば、それで十分だと思います。「これからは注意して運転をします。命を頂いてありがとうございます」と誓ってこれからの安全運転に注意してください。
私たちが生きるということは、他の生き物を犠牲にして生きなければなりません。食事がそうであるように、他の生き物の生命なくしては私たちは生きられないのです。たまたま、可愛い猫だから、申し訳ない気持ちになったと思いますが、その車のタイヤでたくさんの虫もひき殺しているわけです。でも虫では申し訳ないとは思った事はないと思います。それどころかこれから夏に向けて殺虫剤でたくさんの虫を殺します。だからこそ仏教ではただ単に殺生を戒めるだけでなく、生命を頂く事に感謝をする事も殺生戒の意味にあります。自分のために命を頂くのだから、無駄に命を奪わない。そこに自分が生きる事の感謝が芽生えるわけです。
大きな動物は、今回の見える事故死だけでなく、見えないところで、私たちの病気治療のためのモルモットなど動物実験で命をもらっている動物もたくさんいます。
一部の動物を「可愛いのに、可哀そう」だけで動物愛護をするのではなく、屠殺も含め「命を頂く」という日本文化的な考え方を理解していくことも大切だと思いました。合掌
卑怯?とんでもない。
私のお寺にも、近所で事故にあった動物を埋葬するエリアがあります。そして、私自身も、同じことをやってしまった経験があります。
今思い出しても申し訳ない思いでいっぱいです。仔猫でした。
まず言いたいことは、「あなたのしたことは卑怯でも何でもなく、誠実な行動」ということです。「あの猫が悪いんだ。人間の道路に飛び出してきて」と、自分を無実のように扱ったり、「ほったらかしの人が多いんだし、これも税金のうちだから、行政にさせればいいや」と言うなら首を傾げざるを得ないですが、「心を軽くしたくて、お坊さんに相談しようと思う」というのは、むしろ宗教の役割をよく理解して使えている姿と見えます。心は軽くなっても、やってしまったこと自体は消えないというのは、よくご存知でしょう。
私から見ると、あなたは「なすべきをしている」と感じます。戻って遺体を引き上げた事も、ご供養を頼む事も。そして私なら、「ごめんね、でも成仏してね」と願うでしょう。
その上で…「もしも」を考えるのは大切だと思いますよ、つまりスマホを触っていなければ。あなたがこれをきっかけに、いっそう安全運転を心がけるようになれば、それは今回のことのお陰とさえ言えます。
人は失敗や間違い、願いの叶わないことに出会わずに生きていくことができません。かといって、一度の失敗がその後の人生全てをダメにする事もない。悪かったという思いを持ちつつ生きていくよりないのです。
そして、あなたの他人を見る目も育つかも知れません。過ちは認めて謝り、何かを学んでいく。できる限りのケリをつけて、でも忘れるでもない。みんなそうやって生きていくのだと思えば、周りを人を見る目も今より優しいものになると思います。自分に対してもね。これは甘いのと違います。うやむやにしているのではありません。
質問者からのお礼
お二人ともありがとうございました。
何度も読み返し、佐藤様のおっしゃる通り「ごめんね、でも成仏してね」と思いながら合掌させていただきました。
自分ではない生き物の命を奪ってしまった私が、「今回のことのおかげで~」「命をいただいてありがとう」とそれを自分の人生の教訓にする考え方は傲慢なのではないかと考えてしまう部分もあります。
ただ、染川様のおっしゃるとおり、日々他の命を犠牲にして生きてきたのに、これまではそのことに無頓着だったことにも気づかせていただきました。
今まであまり触れてこなかった仏教の教えや命をいただくという考え方を改めて心に刻み、今回のことを忘れずに生きていきたいと思います。