慈悲の心を持つためには?
私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています
生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました
それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません
問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです
今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります
生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった
こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています
今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません
ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます
仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません
ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません
自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません
慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
優しくなくてもいいですよ。
はじめまして、こんばんは。
浩文(こうぶん)と申します。
2度も命を絶とうとされた。
それでもなおこうして生きる覚悟を持っていらっしゃる。
正直何を申し上げていいのか悩みます。
自分自身のこれからに向けて
しっかりと決着をつけたい、ということなのでしょう。
しかしながら過去は過去であるゆえに変えることはできませんから、
どうやって受け止めたらよいのかと。
文面から、その思いが伝わってくるようです。
そこで「慈悲」という言葉が出てきましたね。
『慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?』
慈悲という言葉は、字面のシンプルさとは裏腹に、幾重にも意味がダブって見えるときがあるので、ミスリーディングしやすい言葉だと思います。
仏教の文脈でお応えするとしたらですね。
慈悲の気持ちを持とうとすると
傷つけられた自分。自分を傷つけた相手。
どちらも包み込むために、より大きな観方をする必要があります。
そういう観方のことを仏教の言葉で『智慧(ちえ)』と言うのですが
仏教においては、『慈悲』と『智慧』は同時に成立するもののようです。
お釈迦さまが遺してくれた『智慧(ちえ)』は
“一切皆苦”でした。(または一切行苦とも)
今日、私がこの意を解するとしたら
それは『他人を傷つける人間の心の奥に潜む、耐え難い苦しみ』です。
お釈迦さまが「この世は苦だ」と言った態度は一見ネガティブですが
実はこの観方が、救いになるときがあるのです。
※(「苦」は必ずしも「苦しみ」「苦痛」という意味だけではない、という言説がありますが、私は文字通り「苦しみ」だと受け取ります。)
傷つけられた人は
当然、苦しみが表面化しています。
しかし傷つけた人はもっとその深い深いところに
より大きな苦しみを抱えているのだと。
お釈迦さまは
「あなたが自分の苦しみを癒せたなら、他人を傷つける人間の持つ苦しみも見えてこないだろうか?」と問いの出発点を与えていると思います。
ですから、
いきなり優しさを持とうとしなくてもよいのではありませんか?
できないことはたくさんあるんです。
それでいいんです。
まずは少しずつご自分の傷を癒す方法を見つけていただきたいです。
優しさを見つけるのは、その後からでもいいと思うのです。
南無釈迦牟尼仏 合掌