慈悲の実践について回答受付中
ハスノハのマイページから自分の初めての質問を見たらもう6年近く経過していました。なんら社会や人さまに貢献も出来ず、相変わらず自身の根底には自己蔑視と自己肯定感が低く弱い自分を受け入れてなく、よくもまぁこんだけ執着してるなと。その背景には両親の計り知れない超過干渉環境が要因で親は有り難いと言う観念にずーっと縛られてます。平均してせいぜいあと30年生きたとしても変わらず、こんなはずじゃ無かったと死んで行くんだろうなと。
僧侶の方々を初め、人さまの為に淡々粛々日々精進されて、(端的に言えば)凄いなと。自分には出来ません、言い訳して結局やりもしませんし、せいぜいそんな薄っぺらい自分を守るんだろうと。
仏教に関する事もそれなりに学びました。
けど知識を付けたとしても智慧が全く身につかない。すぐ妄想に支配され目の前の出来事が現実だ、とビックリするくらい脳が支配されます。お陰様で両親は80代で元気です。テレビに洗脳され、目に映るものや人を値踏みして物事や学歴など比較しては、といった感じです。まあ確かに昭和50年頃はそんな世の中でしたね。
自分の本質は右脳タイプです間違いなく。中学生の頃思い起こせば芸術に目覚めてましたが全て否定され親の言う事は絶対の支配下でした。ガッツリ左脳教育で物事の裏の裏裏を自動思考が組み込まれています。人より上、が幸せの法であると教育されました。ただ、じゃあ自分がもし両親と同じ立場や時代や環境であったなら?同じ事するでしょうね。何故なら子供達にふと気づいたら同じ思想で支配してました。余談ですが、利権まみれ、人様のお金は全て自分のもの、と言う例えば財務省官僚のゴミども。また、そんな奴らを許せない!って匿名で批判したりする悲しい世の中ですが、自分が同じ立場ならまあ同じ事やるだろうなと。虚しいだけに感じます。
世の中での立ち振る舞いでは、周囲からはリーダーシップや共感力、コミュニケーション能力は非常に高いと専門家や精神科医師にも言われます。計画性も知能もあるのにすぐ飽きる、このように自己承認欲が高く、自分を分析出来てるとか良く言われますが聞き飽きました。「まだ足りない」とほざいてますよ、自分は。初めましての人からは良い印象を与えます、もうわがままになりたいし自分中心で生きたいです。
結構、俯瞰できてます、良きアドバイス下さい。現在このザマですよ。
煩悩とは、欲望、執着、怒りや迷いなどの原因になるもの。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
やりたいから、やる。それに向いていると思いますがね。
こんばんは。あなたのマイページを見ていたら、最初の問いに私が答えていました。こんなにも長い間、hasunohaにいて下さって、ありがとうございます。
さて私も50代です。お子さん方は当時高校卒業ということでしたので、もう社会人でしょうか…。私は去年くらいから、ようやく「ああ、自分はもうアウトプットしていい時期になったんだな」と感じました。誰から言われたでもなく、ふっと。そして、自分のやりたいことをやる(周りの環境をつくる)ことを意識敵に始めました。
その一つに、「綺麗な環境で生活したい」がありました。だから洗い物とかゴミ拾いとか掃除を、以前にも増してするようになりました。気分次第ですけれど、長々とした理屈は考えず、「綺麗なのは好き。だから」程度…いや、そんな思考すら浮かばずに「淡々と」やっていますね。
それが自分のためなのか?家族のためなのか?家族を甘やかしているのか?とかの説明はイラナイ感じです。そして、床につくときにフッと思い出して「ああ、今日も綺麗な環境にできてよかった」と思い出して寝ます。単純。
あと、顔とか頭のマッサージをしています。結構痛いんですが、ゴリゴリしていると寝付きも良いようです。そのせいか「顔が小さくなりましたね」と言われます。嬉しくも悲しくもないけれど、少なくとも寝付きは良くなりました。あとはインプットというか見る物も、本より自然とか風景が増えました。この辺り、左脳優先から右脳優先になってきたのかも知れません。
「やりたいこと」は、「今の問題がもし全て解決されたら、何をしたいか?」を考えてもいいのかも知れません。現実的かどうかは無視です。旅行?惰眠?芸術?それが見えたら、取りあえず一直線に行動してみてはいかがですか?それがすんだら、「その環境を作ってくれた方」に感謝を忘れずに。好きな事、楽しいこと、好奇心は一生持ち続けて構わないのですよ。
まずは来世を確定しておく
とりあえず人生のハッピーエンドを確定しておけば、死ぬまで生きるだけなので日常生活も平安な気分になるかもしれません。
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えて極楽浄土に往生(転生)したいと願う者(念仏者)がいるなら、阿弥陀仏が念仏者の臨終の瞬間に迎えに来てくれ、念仏者を往生させてくれると考えます。
極楽浄土は修行しやすく悟りやすい環境であり、しかも極楽浄土に転生した者は光り輝く菩薩様の身体になり、ある程度の煩悩が消えている悟りの第一段階に達した状態からスタートできます。
しかも、極楽では無量の寿命があるので、修行未完成で死ぬことはなく、成仏(完全に悟る)まで極楽学園を中退する心配がないのです。
ということで、経典の物語に出てくる阿弥陀仏と、阿弥陀仏を紹介してくださったお釈迦様の
「みんな漏れなく救われたら良いのにな。どんな悪人でも見捨てたくないな。」
という慈悲に共感し、とりあえず念仏して、人生のハッピーエンドを確定しておきましょう。
また、念仏や読経は脳のリズム運動なので、セロトニン神経を整え、精神の落ち着きにもつながる可能性があります。
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
と、お好みのスピードで念仏を口ずさみ、往生極楽のチケットをゲットできた喜びと余裕をいただき、あとは死ぬまで生きるだけだとリラックスしましょう。
そして余力があるならば、自分の欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩に素早く気付く智慧の眼差しと、他人の欲・怒り・怠け・プライドには「煩悩がある者同士お互い様だ」と大目に見てあげる慈悲の眼差しに挑戦しましょう。
この世で智慧と慈悲を実践して功徳(善の癖付け)を積むならば、極楽学園での成仏(卒業)が早くなります。(入学前の予習)
極楽を卒業した暁には、今度はあなたが人々を救う仏様と成って活躍することになるでしょう。
なむあみだぶなむあみだぶ
追記
とりあえずの念仏で大丈夫です。
質問者からのお礼
またご縁を頂きまして感謝いたします。
読みながら思った事がありました。現状のわたしの立場から、(例えば)海外旅行は無理だけど、近場の神社やお寺くらいなら参拝出来ます。また実際行ってます。なにが実践出来て、何が出来なかったのかの記録を怠っています。ただどうしても、自分の心の針が敏感過ぎる事に、どう対処するかが難課題です。お天道を浴び散歩でもすればいとも簡単に脳も心もリフレッシュ。
今回の質問でアドバイスという協力を求めたのも自立の一歩だと踏まえ、今回質問をさせて頂いた事を自負したいと思います。
やりたい事は、人と関わる事です。ボランティアも中途半端でしたのでまた初めます。今は体調不良なので元気になったら。
来世の確定について。
弥陀の本願に南無阿弥陀と唱えればどんな人も漏れなく極楽浄土に行ける。歎異抄には、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」を最初見た時は、えそんな簡単でいいの?が率直な感想でした。受け入れがたかったです。素直じゃないなあ自分は、と。今後は南無阿弥陀と唱えます。とりあえずでも良いんですよね。