救いとは?
日本の仏教において救いとはどのような事なのでしょうか?
墓参りに行く寺の住職によく話しかけられるのですが
悩み事の話題になっても一切皆苦なので諦めろ的な話しばかりで
1度もスッキリしたことがありません。
寺で人生相談自体が間違っているのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
思い通りにならない原因を明らかにしなさいという意味です
こんばんは。
お寺のご住職に「一切皆苦なので諦めろ」と言われたのですね。
仏教で「苦」とは、息苦しいとか辛いとかという意味ではなく、「思い通りにならない」という意味です。
「四苦」(生老病死)のひとつの「病」を取っても、「病気は苦しい」という意味ではなく(病気になると苦しいですが)、「病気は思い通りにならない」という意味です。マラソン大会の日に病気になって休みたいと思っても、思い通りに病気になることはできませんし、楽しみにしている旅行の日に病気になりたくないと思っていても病気になることもあります。このように病気に限らず、すべての事は「思い通りにならない」ものです。
また仏教で「諦める」とは仕方がないから断念するという意味ではなく、「明らかにする」という意味です。どうして思い通りにならないのかを観察しなさいという事です。
人生は思い通りにならなくてイヤな思いをすることもある。なぜ思い通りにならないかをよく考えることで、イライラや不安な気持ちをコントロールし、正しい生活を送りましょうというのが仏教の考え方なのです。
「思い通りにならないのなら最初から生まれてこなけりゃよかった」と考えるのではなく、せっかく地球に生まれて来たんだから地球での生活を存分に楽しもうよ。思い通りにならないこともあるけどさっていうのが仏教の教えです。
あなたご縁がありませんでした。
hasunohaではそんな回答は致しません。あなたに向き合って回答させて頂きます。色々特徴的な僧侶が多く癖も強いのでびっくりしますが、時期に慣れると思います。多様な回答も得られますから、気軽に質問お願いします。
因みに私は自己の経験と祖師の教えから回答させて頂きます。
一切皆苦を悟るため、仏教を趣味に
一切皆苦に心底納得できたら、それは悟りです。
菩提寺のお坊さんは、悟りの側からおっしゃられている、つまりゴールである山の上から手を振ってあなたを呼んでくれているのでしょう。
一方あなたから見ると、山頂は見えているが、木々に隠された途中の道が見えない。
具体的な道順(悟るための方法)がイメージできないのかもしれませんね。
一切皆苦だと諦められたら楽になる。これは真理だと思います。
では、一切皆苦を悟る方法は?
それは、仏教を学び、瞑想などの修行をすることです。
是非、仏教を学んでいただきたいと思います。
一生涯の趣味になります。
なお、仏教の救いは、悩み苦しみを消したり制御できるようになることだと思います。
追記
苦しみはなくならない、ただ苦しみの形が変わっていくだけだと、苦しみの日常を受け入れると気楽になるかもしれません。
苦しみの刺激が浮かんでは消えてゆく。生きることは、目の前の秒単位で変化していく苦しみに対処し続けること。秒単位に分解すれば、複雑な難問ではないのです。
たとえば、死人のために墓の穴を掘るのも、潮干狩りで貝を探すのも、やってる動作(掘る)は同じ。手を動かさなきゃならない苦しみはなくならないが、複雑な難問ではないのです。
浄土宗的に言えば、南無阿弥陀仏の念仏を中断させる苦しみと、それが終わればまた南無阿弥陀仏に戻ること、人生はただそれだけの単純作業なのです。
仏教の「救い」とは
MMMさま
仏教の「救い」とは、「自灯明・法灯明」とありますように、教えを頼りとして、自らで自らを救わなければならないのであります。
下記問いでも「信」と「救い」について回答させて頂いていますが・・
問い「念仏の信心と瞑想について」
https://hasunoha.jp/questions/48701
「信」についてですが、仏教においては「信じれば救われる」という図式ではなく、自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」。
では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。
その信頼を醸成していくのが仏道過程の一つにもなります。
ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。
「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」ということであります。
どうにも納得できない、得心できないのであれば、聞かれる必要はないかと存じます。相談される相手を代えられますのも。まさにこのhasunohaでもよいでしょう。
また、仏教の通底してある真理は、「苦、集、滅、道」の四つの聖なる真理である四聖諦にて、滅諦・道諦にて、苦を滅するための方法についてお釈迦様がたくさんに教えを残されておいでであります。
この一切皆苦を自らでどう克服していくべきであるのか、是非、仏教を学び修していって頂けましたら有り難いことであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
大鐵様
お返事いただきありがとうございます。
愛する者の墓が置いてある寺と縁がないとは
最悪すぎて笑えます。
縁とはいったい何なのでしょうね?
願誉浄史様
お返事いただきありがとうございます。
願誉浄史様と同じ宗派だからなのか修行しに来いともよく言われます。
「一切皆苦だと諦めたら楽になる」は私も部分的にはそうだとは思いますが何でも諦められる様になれる事が本当の心理でなのでしょうか?
光禪様
お返事いただきありがとうございます。
仏教での「苦」は「思い通りにならない」は承知しておりましたが「諦めろ」は「無条件で受け入れろ」だと感じていました。話の流れで受け取り方は違うのでしょうが「諦めろ」から「明らかにする」はなかなか思い浮かびません。光禪様の様な住職さんがいらっしゃるお寺でしたらモヤモヤも無かったのかもしれませんね。ただ生まれてしまったので「諦める」しかないのですが生きていて圧倒的に「不」が多い世界なら生まれないのが幸せなのかなともやはり思ってしまいます。
願誉浄史様
追記いただきありがとうございます。
何か味気無い気持ちになりますが思い通りにならない人生を単純作業としてこなしていくのも心理ですね。
川口英俊様
お返事いただきありがとうございます。
自分の求めている何かが「苦集滅道」の四つの聖なる真理である四聖諦と滅諦・道諦に有る気がしました。調べてよく読んでみます。