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慈悲深くなるには?

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有り難し有り難し 44

いつもご説法ありがとうございます
また質問よろしいでしょうか?
近くのお寺のお坊さんに慈悲深くなるにはどのようにすればよいでしょうか?
と尋ねると
ボランティアなどを見返りを求めずにやりなさいと教わりました
そうさせていただこうと思うのですが
では日頃の心構えで
慈悲の心を維持するようなコツはあるでしょうか?
やはりボランティアなどの見返りのない善行を積み上げていくしかないのでしょうか?
ないとしたら
日頃はどのような心構えを持てばより幸せな人間になれるでしょうか?
もしよろしければお応えください
よろしくお願いします

2022年9月21日 13:21

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

キレイにならなくていい

ご相談拝読しました。

毎日さんのイメージする「慈悲深い」「幸せな人間」とはどのようなものでしょうか。
漠然としたイメージよりも具体的な課題を抽出していく方が現実的な対処が出来るかもしれません。

しかし、どれだけ現実的な対処をしようと、つまりは、傾向やクセを何とか整えようと、私たちが人間であることには変わりません。人間には煩悩があります。なのでそんなにキレイな聖人君子にはなれないものです。

イライラする時はしてしまうし、怒るときは怒ってしまうでしょう。そうならない時はそうならない程度の縁の中にあるというだけなのかもしれません。

もちろん人によって怒りの沸点の程度に差はありますから、なるべく怒らないようになろうという事が悪いことでは無いと思います。でもそれで無理してしまうならば毎日さんらしさも失われてしまうかもしれません。

見返りを求めないとか、イライラしないとか、そういう心が起きてしまうことは認めてはいかがでしょう?

大事なのはその心を行動にして他者にぶつけてしまうのを避けること。言うならばキレイになろうとするのでなく、汚さとの付き合い方を覚えるということです。

自分の汚さを認めることは他人のそれをも認めることに繋がります。自分の内面を誰もわかってくれないように、他者の内面もわかりません。わからないけれども、色々あるんだろうなあということを押さえられたら、他者に対する許容範囲が広がり、慈悲深い感じに近づくかもしれません。

まあ、限界はありますが・・・。どうぞご無理なさらず。

2022年9月21日 14:21
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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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煩悩がある者同士お互いさま。

私達には欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩があります。
煩悩は自分や他人の悩み苦しみの原因になったり、失敗・過ちを引き起こしたりします。
だから煩悩を消したり制御できた方が良いのですが、悟っていない私達にはそれが難しい。
つまり、自分も他人も煩悩まみれの者同士、お互いさまなのです。
慈悲を起動するためには怒り・憎しみを一時停止する必要がありますね。
相手への怒りを止める手段として、「お互いさま」を意識してみてはどうでしょうか。
ただ、そうは言っても人間には怒りの煩悩があり、「お互いさま」「慈悲」が難しいことも多いです。
そこで、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を称(とな)えて、阿弥陀仏の完璧な大慈悲にお任せする「保険」をかけましょう。
自分の慈悲は不完全で力不足で、相手を憎んでしまうこともある。
でも、仏様の完全な慈悲は相手を救ってくださる。
私が世界に怒りのバイ菌を持ち込んだとしても、仏様の消毒能力で最終的にみんなもれなく救われるので、安心ですね。
(すみません阿弥陀様、いつもご迷惑をおかけしております!
なむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶ)
「欲・怒り・
怠け・プライド
気をつけて 
お互いさまの 
なむあみだぶつ」

2022年9月21日 18:02
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ご説法ありがとうございます
私は正義感が強いところがあり、自分が汚いくせに潔癖なところがあります。ご指摘してありがとうございます
私は慈悲の心をもてばすべての人の罪や過ちを許せるようになれると勘違いしておりました、ご説法いただきはっとしたしだいです。
慈悲の心にも限界があるのですね。
そして私の汚れているところを自覚し、お互い汚れているところがあるのだから、と許し合うと良いのですね。
私達は仏様ではありませんからね。
しかし仏様が世界の怒りや憎しみを浄化してくださいますので、我々はただ仏様に懺悔をすればよいのですね。
仏様と今生きているすべての生物と今まで世界を支えてくれたすべての人々に感謝しながら、一歩一歩慈悲の心をできる限り育てていければと思います。
ご説法ありがとうございました

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

有り難し有り難し 25
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ