仏教において、慈悲の心とは
51歳女性です。
私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。
ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。
生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。
そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか?
ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。
ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。
両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか?
また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか?
それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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慈悲を意識して鍛えていなかった
悟らない限り、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩はなくなりません。
それでも、慈悲を意識して訓練(修行)すれば、怒りが弱まる可能性はあるでしょう。
読経も、そこに説かれている智慧や慈悲を意識して読んでいるなら煩悩が弱まる(悟りに近づく)修行になるかもしれませんが、意味を意識せずに唱えている場合は集中力の修行になるだけかもしれません。
読経に意識を集中している間は欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩が一時停止しますが、不浄・苦・無常・無我の真理を悟っていなければ、集中力が切れたとき(読経していない日常)には煩悩が再起動してしまうのではないでしょうか。
お父さんが浄土に転生しているなら、きっとその浄土の仏様に導かれて真理を悟って怒りの消えた(揺らがない慈悲の)境地に達するでしょう。
私達にできることは、お父さんの悟りが少しでも早くなるよう願って、功徳(悟りの種となる善行)を回し向けることでしょうね。
ねこさん
拝読させていただきました。
お父様とお母様、生きているうちに仲直りする姿を自分たちに見せてほしかったですね。残念なお気持ちもおありかと思います。しかし、お父様がご自分の人生を全うされたことに対しては、「ご苦労様でした。自分を産み育ててくれてありがとうございました」と感謝のお気持ちを伝えたいものです。
《そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか?》ということですが、「あるがままの心」とは、人の1番中心にある仏の心です。煩悩の心のことではありません。本来の人は仏の心を持っているですが、この世で生活しているうちに他人と自分の比較の中で教育され、自分さえよければいいという煩悩にまみれてしまいます。
そんな煩悩まみれた自分を、もう一度本来の仏の心に気づかせてくれるのがお経をあげるはたらきです。体が汚れたらお風呂に入って体の垢を落とすように、世間の煩悩で汚れた心の垢を落とすのがお経をあげる意味合いです。お風呂も毎日入るように、お経も毎日あげて、仏の教えの言葉で日々日々の心の垢を落としていきます。
お経をあげることで表面的にはスッキリしますが、本当に心の芯から煩悩の垢を落とすには生活の中で実践していくこと欠かせません。自分の目の前にいる人を大事にしていくことで、自分の弱さと向き合いながら、本当の意味で仏の心を体得していきます。
阿弥陀如来はすべての人を救って下さります。ねこさんのお父様も救って下さっています。お父様に対しては、心配の気持ちを向けずに、ただただ感謝の気持ちをお向けになったらよいのではないかと思います。
お父様に対する1番の恩返しは、ねこさんが幸せになることです。
ぜひ、ご自分の人生を大切になさってくださいませ。
ねこさんの幸せを念じております。
合掌
ねこ 様 相談ありがとうございます。
慈は、インドの言葉でミトラといい、友・親しみの意味から喜びをえること。
悲は、インドの言葉でカルナーといい、哀しみの意味で人の哀しみを理解すること
つまり、慈悲とは、慈しみ・喜びを分かち合い哀しみを共感し癒すこと言えます。
また慈悲とは、自分も他人も、ともに悩み苦しみに気づき、その悩み苦しみを和らげようと行動することと解しています。
仏陀の言葉に
「全世界に対して 無量の慈しみの意 ( こころ ) を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき 慈しみを行うべし。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この 慈しみの心づかいを しっかりとたもて。 この世では、この状態を 崇高な境地と呼ぶ。」
とあります。
この崇高な境地は、読経だけで無し得るものではないと思います。普段の暮しの中で心がけなければ到達しえない境地です。読経はもちろん大切です。それはご先祖様の成仏を祈るだけではなく、普段の生活・心がけに活かしていくものでなければなりません。
ご両親の関係はそのご夫婦の間でしかわからないと思いますが、あなたが成仏しないのではと感じるのなら、あなたご自身が、足らないところを届けるつもりで、お父様に読経供養なさいませ。あなたの慈悲の心は必ず届きます。お父様はそれを受けて、段々と成仏する力を増すのです。そしてご先祖様として、あなた方ご家族を守る力を発揮していくのです。慈悲による成仏、信仰というのはそう理解し行動すべきであります。
追伸:お礼メッセージありがとうございました。また、おきもちもいただきありがとうございました。この度のご縁に感謝申し上げます。合掌礼
質問者からのお礼
3名のお坊さまのご言葉を賜り、大変ありがたく、何度も読み返させていただきました。
お言葉を踏まえて考えますと、周囲に尽くし、多くの人々に感謝されていた父でも、仏さまになるには、まだ遠い道のりがあるように思えました。
私が両親より聞いていた教えに照らし合わせれば、父は来世でも苦労し、人間界で悟りを得るまで、その苦労は続くと思われます。
気の休まらない苦労を背負っていた父なので、まだ苦労が続くことを思うとつらいですが、どこかで生まれ変わっているかもしれない父に、応援の祈りを届けたいと思います。
阿弥陀如来さまのお導きで仏となる道があるというのは初耳でした。
残された家族にとっては、心休まるお話です。
亡くなって3年経つますので、そろそろ悟りを得て極楽かもしれないと思うと、安堵と幸せを感じます。
両親への愛と感謝を胸に、精進いたします。
温かいお導きをありがとうございました。