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智慧と慈悲とはどういうことでしょうか?

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有り難し有り難し 6

物事を正しく見る目と救けようとする心というこでしょうか?
これらは様々な経験や失敗からだんだんと
培っていくものなのでしょうか?

2023年11月27日 22:01

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無常・無我・涅槃の機能・働き

智慧・慈悲とはなにか。
われわれ人間に元々備わっている最高最上にして最善の力のことです。
自分を救い、他者を救える力。
世間では蹴落とし合いばかりやっちょるのはそういう力が自分の内側にあることを知らんのです。
だから人間は誰であっても本当にそこを学ぶ、教わる、見い出す義務がある。人や自分を苦しめたって誰も救われないからですよ。
どうすれば手に入るか。
人間の本来性は無我なので我の無い自己を見い出すことで引き出される。
我がない、無我・無私とは何か。
己、おれ、自分自分したわたくし意識がこの身心にもともと起こっていないのが人間の本来の様子。ところが人間はいつの頃かわが身を守ろう、わが身が可愛い、自分だけがいい思いをしたいといういやらしい欲求が生じてしまうことがある。その生命のもつ自分だけ優遇されたいと思う意識が強くなると無我の心、仏の心から遠のいていく。しかもそれをやっても心底幸せにはなれないのにそっちを強くしようとしてみんなスベっている。
世界をご覧あれ。みな我・エゴイズムの被害者ばかり。
だから賢者・覚者は我を離れよ、と説く。
仏の心とは坐禅・瞑想してわたくし意識を忘じ去った静寂なる様子。妄想止んで寂生じれば智慧・慈悲現ず。その心がそのまま智慧の働き、慈悲の働きとなるのです。なぜか。わたくし意識が無いから、物事をみるにも観自在。人の評価が入らないから、自由なものの見方が見いだされるようになる。わたくし意識が無いから、相手が困っていれば自分のことと同じようにこの人を助けてあげたいと思うようになる。
もし自分ラブの強い人であれば嫌いな人が苦しんでいればざまぁみろと思うでしょう。ですが、我を克服した人は相手が困っていれば好き嫌いや自分ルール、自分の条件付けなしに相手が助かる方法を教えてあげられるようにもなる。それも慈悲の働きであり、同時に迷いや苦しみから活路を見い出す救いの働き、智慧の働きとなるのです。
釈尊の悟りの功徳を二つの側面で表したものが観音の功徳であり智慧と慈悲。
悟りというても人はピンとこんでしょう。
だから、それを誰にでも価値のある分かりやすい形にしたものが智慧と慈悲の両輪。私的なものの見方を絶した心が智慧、般若という救いの働きであり、わたくし心がないからこそ、相手に優しくできる救いの慈悲心となる。相手の苦しみ、とげを抜いて安楽を与える力です。発菩提心。

2023年11月28日 4:42
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
勉強になりました。

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