懺悔の仕方について
懺悔の仕方について教えてください。
お坊様に懺悔があることをおしえていただき、最近になり懺悔を始めました。
今現在、家に仏壇やお墓はありませんが、懺悔させていただいてる部屋の自分の目線より上に神社からいただいたお札を置いています(家内安全)。神社とお寺は似て非なるものであると思うのですが、お札に対して背を向けて手を合わせるのも失礼なのかなと思い、お札を前にして手を合わせ『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、仏様、神様、ご先祖様』といい自分の過去の行いと反省、二度としないことを伝え、『どうか家族をお守りください。見守りください。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』とお祈りを終わります。
方法として間違っていれば教えてください。
また、神社のお札の隣にお寺のお札は置いていいものなのでしょうか??
そこもお教えいただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【追記あり】形だけの懴悔で終わらず
ご相談拝読しました。ずっと過去の過ちへの後悔に苦しんでいますね。お辛いですね。
でも今あなたははたして何に苦しんでいるのでしょうか。
懴悔とは言いますが、要は自分が楽になりたいとか、人から嫌われたくない、悪口を言われたくないということではないのですか?思い通りにしたいということなのではないですか?
それは懴悔なのでしょうか。
方法はなんだって構いません。仏様の前で手を合わせ自らを省みる時間は大切です。
でもそれで終わらず省みて浮かび上がった自分から逃げないことです。
過去から逃げも隠れもしない。あえて言う必要はないがバレても堂々としていたらいい。今のあなたを見てあなたを認めてくれる人も出てくるでしょう。というかもうそういう人もいるのではないですか。
仏様は祈ったらそれと引き換えに願いを叶えてくれるような存在ではありません。
あなたの事実を教え目覚めさせるのが仏様です。
縁がととのえばなんだってしてしまうような身を持つのがあなたであり私なのでしょう?
あなたはそれをよく学びんだのでしょう。その自分から逃げずにいきましょうよ。
苦しみから逃げよう逃げようとすると逆に苦しみが膨れ上がります。
この苦しみは私がいただいた課題なのだと引き受ければ、苦しくとも充実した歩みになることでしょう。その歩みこそあなたがあなたでいられるものだと思います。あなたでないものになろうとしないでください。
【追記】
>縁がととのえばなんだってしてしまうような身
というのは簡単に言えば「あなたのしたことはあなただけのせいではない」というところでしょうか。
周りの状況、生育環境、時代社会…あらゆる縁と無関係に存在するあなたやあなたの意思はないのです。
犯罪を犯す人は、最初から犯そうと思って生まれて来たわけではないでしょう。犯そうという気持ちを自分一人だけで起こしたわけではないでしょう。
これは行き過ぎると運命論のように誤解されますがそうではないのです。
一切は縁(状況・環境・対象)によって条件づけられたものとして責任から解放されると共に、それでも私の選択は無関係ではないと主体的に責任を引き受け直す。
そこに救いがあるように思います。ゆっくり味わって考えてみてください。
質問者からのお礼
吉武文法さま
回答してくださりありがとうございます。
確かに、悪口を言われたくないという保守的な部分はあります。仏様に自分の保守的な思いを願いを叶えてもらおうとは思ってはいません。毎日、懺悔することで自分の気持ちをすっきりさせ、また同じ過ちはしないと何度もこころに刻むことができるものだと思ってました。私が最後に言った『どうか家族をお守りください。見守りください。』が、願いを叶えてもらおうと思っていると仏様に思われたのでしょうか。これはネットでこのようにやった人がいたので真似てみたのですが、違うのですね。懺悔とは難しいものですね。
『縁がととのえばなんだってしてしまうような身』というのは簡単に言えばどうゆう意味なのでしょうか。すみません、私の頭が悪く言葉の理解ができませんでした。ですが、お坊さんのお言葉は全て吸収したいという気持ちがあるのでお教えいただけたらと思います。
追記ありがとうございます。
縁の意味とてもわかりやすかったです。
ゆっくり考えます。