母の死を受け入れられません
5月に母を亡くしました。病気がわかって、わずか2ヶ月。あっという間に病が広がりました。コロナのこともあり、付き添いどころか面会もできず、やっと亡くなる1週間前に面会と付き添いの許可が出ました。
母は、自分の最期が近いとは知らなかったので、悩んだ末にわたしから伝えました。母は困ったような、複雑な笑顔で最後まで聴いていました。そして、仕方がないね、と言いました。それならもう何もしたくない、命が短くなっても家に帰りたい、と切望したので自宅退院し家族で看護し、数日後に家族全員で看取りました。
いま、母を失い、その大切さを痛感しています。
元気に帰れなかった母の姿、最期の母の姿を目に焼き付けたのに、なぜここにいないのか、母に触れられないのか、話ができないのか、そればかり考えます。
どこに行くのも母が一緒だったので、行った先で母を思い出しては涙が溢れます。
母に触れたい、もう一度話がしたい。
当たり前の喪失感なのかもしれませんが、苦しくて苦しくて、寂しくて寂しくて、どうしたらよいかわかりません。何をする気にもなれず、夫にも申し訳ないと思うのですが、体がいうことを聞きません。
無気力な状態から抜け出すには、ただ時間が過ぎるのをじっと待つしかないのでしょうか?
母の病に気づくことも出来ず、悔やむ気持ちもあります。
わたしの人生を生きなければ、母が悲しむとも思います。
わかっていても、苦しい。
いつになったらこの悲しみから抜け出すことはできますか。
それまで、何を思って生きればよいのでしょうか。
母に会いたい。話がしたい。ただそれだけのことが叶わないもどかしさに押しつぶされそうです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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おつらいでしょう、、、
御同情とお悔やみを申し上げます。
大切なお母様をそんなにも急になくされて、さぞお辛いことと存じます。
どうかせめてご自分を責めたりなされませんように。
悲しみ、喪失から抜けだすには、誰でも時間が要ります。
あなたは今、悲しい。触れたいのに触れられず苦しい。寂しい。
つらい…
そうですよね?
その今の状態を急に、変えなくていいんですよ?
悲しくてあたりまえなんです。
苦しくて辛いでしょう。
でもそうやって、お母さんを思い出すのも「ご供養」だと僕は思います。
泣くのも「ご供養」だと僕は思っています。
たとえば、ドライに形だけ供養したって、それが供養とは思わないですよね?
あなたのお母さんを大切に思うお気持ちが最高の供養なんですよ。
あなたのお気持ちがお母さんとのつながりです。
お母さんとの思い出を話せる人がおられますか?
これから先、法事などがもしあれば、思い出話になるきっかけにもなりますよね。
もしおられたら、
お母さんの良いところ、くせ、様々な思い出を語り継いで行ってください。
大丈夫。まだご無理しないでくださいね?
質問者からのお礼
ありがとうございます。
今日から仕事に復帰しましたが、ふとした瞬間に母がもうこの世にいないことを思い出して、涙が出そうになります。
でも、今はまだこれでいいんだと、悲しむことも母への供養なのだと言っていただき、気の済むまで悲しみに暮れようと思いました。
時の経つのは長くてつらいですね。
母も、いつも時計を見て「1日が長い」とつらそうでした。
母の苦しみの何分の一にもなりませんが、今は母のことを想って泣きます。
そして、少しずつ元気になれればと思います。ありがとうございました。