何故私は苦しみを持って生まれたのか
私は強迫神経症を持ってこの世に生まれました。強迫神経症とは、強迫観念に囚われ特定行動をしなけれいけないと自身で思い込んでしまう病です。家族と医者のおかげでなんとか症状を大幅に改善でき、日常生活はおくれるようになりました。それまでの人生は業苦でしかありませんでした。
しかし、悲しいことに完治にまでは至りませんでした。まだ頭の中で無性に強迫観念囚われます。常に起きるものなので逃げられません。医者に説明しようにも言葉で表せないので理解して頂けません。おそらく、完治はもう望めないのだと思います。
私には絶望しかありません。この苦しみにずっと付き合わないといけないのだと。誰にも理解されず、ただ1人で悲しく抱え込むしかなく、もがき苦しみ続けて、死ぬだけ。
母は私に言います。「人の苦しみはそれぞれ。あなたもその病気と付き合い方を探せ。」と。世間一般でいう苦しみとは「自分が何に苦しんでいるかわかる」、「人生の一部分に過ぎない」ものですよね?苦しんでる時間もあるかもしれないですけど意識しなくてもいい時間もありますでしょう?その反面私は「思考なので常につきまとい逃げられない」、「苦しみは人生の全部」、「何に苦しんでいるのか具体的に掴めない」、「他者に伝えられない」のです。付き合えという方が無理でしょう。
そんな業苦の中でも私が今生きているのは「苦しみは生きている時だけ。耐えられなくなった時は最悪自殺すれば終わる」という考えがあるからです。1度ナイフで腕を切り、神経を切ってしまったこともありました。何故か助かってしまいました。あそこで死ねれば楽だったかも知れません。
しかし、「自殺すれば地獄以上の苦しみがある」、「全く同じ人生を繰り返す」という話を見ます。これは本当なのでしょうか。私は…苦しみ抜いて死に絶えること以外許されないのでしょうか?
自殺せず全うに生きた場合、私のこの苦しみは現世だけで終えられるのでしょうか?それとも意識として残ってしまうのでしょうか?
そして、なぜ私だけこんな目にあって生まれて来なくてはならなかったのでしょうか。人は平等と言いますが私はそうは思いません。そんなものは人を破壊しつくすような苦しみを知らない人の意見。私は人並みに悩み、苦しむ、そんな人生が欲しかった。
神がいるとしたら、何故こんなにも残酷なことを私に強いるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたのこれからを考えて
こんにちは、初めまして。
苦悩のご心中が伝わってきます。
お辛いでしょう。
まず、私の感想を述べる際の前提を申しておきます。
「神がいるとしたら、何故こんなにも残酷なことを私に強いる」のか、というお尋ねです。嗚咽の叫びのように問われてあり、あなたの苦しみが伝わってきます。ただ、神様のことを私は存じません。また、仏様は何かを運命づけたり、超自然的な力で人間に影響力を行使する存在ではないということ、これについてはご了解下さい。
あなたは、「何故私は苦しみを持って生まれたのか」とも表題に問われています。
これがもし、神様を前提としてあなたを生まれさせた理由があるのか、という問いならば私には先に述べた理由から回答は不能です。もし、あなたが神様に対する信仰があるならば、その信仰に基づいて考えるべきでしょう。
これがもし、特定の信仰がないのだったら、「神様」を前提にすることは止めておきましょう。曖昧な思考に陥ってしまいますから。
さて、「自殺せず全うに生きた場合、私のこの苦しみは現世だけで終えられるのでしょうか」とのお尋ねです。仏教では、自死如何に関わらずすべての人が自分の業を作り、その業を影響させ合い、自業を背負っていかなければなりません。
袖振り合うも多生の縁、と言いますね。
多生、つまり無限の生死を繰り返す中にあって、袖が触れ合うあなたとはどちらかの生でご縁があったのでしょう、という言葉です。
つまり、人間はその業を抱えて、生きて死してを繰り返します。
あなたの苦しみに限らず、人間はその苦しみを現世だけに限定させることは出来ません。
ここまでは、私は理性的に神仏の違い、そして仏教的な業と苦の関係を述べてきました。非常に広範な背景を持った問いでしたから。
あなたは、表現し難い苦しみ、周囲に理解されない、そこに苦しみ、孤独感にも苛まれているのでしょう。
その孤独感に陥って、他者の内面への接触が少なくからこそ、他者の方が比較的苦しみが少ないと見えるのでしょう。しかし、そうでしょうか。このハスノハには日々どうしようもない苦しみが綴られています。他者との比較は止めましょう。
仏教では、惑→業→苦という一連の流れがあると教えます。
その悪循環からの開放を「解脱(解き脱れる)」又の名を「さとり」と呼んでいます。
あなたのこれからを仏教に問うてみませんか