過去との向き合い方とこれからについて
僕はこのコロナ自粛の期間でさまざまなことがありました。
自分の過去してしまった罪についてもう一度改めて思いだし反省して、どうやったらその罪と向き合い償えばいいかというアドバイスもありがたいことにさまざなお坊さんにいただきました。
そして、今一度自分のことを知るために、昔から悩んでいた精神的なことについてお医者さんに相談してみたところ、強迫性障害と診断されて、さらにもしかしたら軽度だとは思いますが統合失調症も併発している疑いがありました。
このことを両親にも正直に話し、両親も理解してくれました。
しかし病気のせいかもしれませんが、僕はまだ先の見えない不安と過去の後悔が付きまといます。してしまったことはもう元に戻せないので今は精一杯罪と向き合い前を向こうとしているのですがいまだに後悔が付きまといます。
僕は大半の人は小さいことから大きいことまで何かしらの後悔を背負ってるものだとおもっているのですが、お坊さんも含め皆様はどういうふうにそういった過去と付き合っておられるのですか?
そして先の見えない未来の不安についてどう考えてらっしゃいますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今生かされていることに目を向けてみる。努力の方向性を再考する
私が思うのは、出来ることと出来ないことを分ける事が大事だという事です。罪を消して何もなかったことにはできません。しかし、同じ罪をもうしないように努力することは出来る。同じように、今後良い事しかせずに生きることは難しいと思います。なぜなら、人はご縁に会えば何をしでかすか分からない存在だからです。親鸞という僧侶は「さるべき強縁のもよおせばいかなる振る舞いもすべし」(人間というのは縁さえ整えばどれだけ怖ろしいことおもしてしまうんだ)とおっしゃっています。しかし、だからこそ、自分の欲望に気をつけて行動することが大切なのです。
どれだけ仏教を信じていても、嫌な事も起こるし、失敗することもあります。でもそのたびに、そういう私を心配している「仏様に申し訳ありません。」と手を合わせるようにしています。そのように、反省したり、生かされていることに感謝することで、少しずつ人間として成長していけるのだと思います。完璧な人間になる事はいつまでもないのでしょう。でも完璧に慣れないからこそ仏様はお前を救うといつも心配して下さっているのです。(これは浄土真宗の阿弥陀如来という仏様への信仰です)
あなたは、頑張ったり、よくできた時に初めて自分を認められる厳しさがあると思うのですが、実は頑張ったことを誇る事よりも、今頑張れていることに感謝できる人に成る事これが仏教の目指す方向性です。今あなたは頑張れている。生きている。それは当たり前ではない。その事に目を向け感謝できる人に成ってはどうでしょう。
過去とどう向き合ってきたか。やはり、私にもいつも、後悔することがあります。しかし、大事なのは過去の出来事と今の自分を分ける事。今の自分は過去の自分とは違います。必ず成長しています。過去にこだわって変われないと思うのもまた執着です。人は変化します。反省しつつ(これも失ってはならない)も、未来へ向かって一歩一歩成長しようと進む事。そうすれば、いつか過去の出来事の意味が変る。あれは悲しい事だったけど、それがあったから反省して大事なことを分からせていただいたという日が来ます。時間が必要です。悲しい経験をしたからこそ、他者の悲しみも分かる人に成れるかもしれないのです。
未来の不安については、文字数が来てしまったのでまた別の機会で述べたいと思います。
質問者からのお礼
釈義行 様 ご回答ありがとうございます
確かに自分は過去に執着していたと思います。過去の自分から今の自分に反省をしつつ成長することを考えて前を向いて生きていこうと思います。
ぜひ機会があれば未来についての話もお聞かせください!