若い子をかわいそうだと思ってしまう
SNSを趣味で使っており、幅広い年齢の方々と繋がりを持ちます。
ときには、趣味のことだけでなくプライベートな話もするのですがそう言った内面的なものに触れるたび、自分より若い人に対し無知を教えてあげなければかわいそうだ、と感じてしまいます。その年下の人たちがどこか孤独を感じさせるのもあると思いますし、その孤独を私も少し前まで体験していたからこそかと思います。
主に「その考えは視野が狭いよ」という無知さに対してです。嘆いていればそんなことないと言いたいし、いきすぎた言動をしていたらそれは嫌な人もいるよ、とプラスのこともマイナスなこともです。
一人の人間として見たとき、自分とは常識や感覚が合わないんだと思ってそういう人から逃げるのは簡単ですが、若いなら仕方ないよな、教えてあげよう、考える機会を与えよう、と向き合って行こうと努力すると自分自身が疲弊してしまいます。
それでも教えてあげなければかわいそうだ、と感じてしまいます。
それが歳上の役目だとも思ってしまいます。誰かが教えてあげなければ、と思うのです。
とんだお節介だ、何様だともわかっています。
それなのに疲れ過ぎると突き放してしまいます。そしてまたかわいそうだ(かわいそうなことをした)、と思って苦しくなります。
自分の考えと行動のギャップにも疲弊してしまいます。これは一体どういう感情なのでしょうか。
これは正しいことなのでしょうか。
わかりません。
ご意見聞かせていただけたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どっしり構えていて、大丈夫ですよ
むらさきさん、おはようございます。自己中心的な人々が多い中で、若い方を思うむらさきさんの気持ちを大切に読ませて頂きました。私も僧侶として、幅広い年代の方と関わりますし、このハスノハだけでなく、電話や対面でもお悩み相談をお受けすることがありますので、むらさきさんの気持ちはよくわかります。その中で、自分の思いを押し付けたり、わかってもらえなくて疲弊したり、でもほっとけなくなったりと、様々な試行錯誤をしてきました。その過程で、一つの言葉が大切なヒントになりました。
それは、
「啐啄同時」という禅語です。啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る、これを「啄」と言います。この「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれます。これを「啐啄同時」と言います。これは鶏に限らず、師匠と弟子、親と子の関係にも学ぶべき大切な言葉です。さらには、大切なことを伝える、大切なことを受け取る時の相互の関係性についても教えている言葉だ、と私は受け止めています。つまり、相互の関係性・タイミングがぴったり合った時にこそ、大切なことは伝わり、分かち合えると言うことです。
では、関係性ができていない時は、「その時」が来るまで楽しみに待つのです。「親」という漢字が示すように、自分と相手の関係を少し高いところに立って眺めている感覚です。むらさきさんがお気づきのように、相手といつも同じ土俵で関わり続けるとくたびれてしまいますね。そして、突き放してしまうでしょう。でも、知らない顔は出来ないから、苦しくなるでしょう。
どうぞ、どっしり構えてください。思わず、むらさきさんに尋ねたくなる、教えて欲しくなる、そんな魅力的なあなたになることは、今からでもできますね。むらさきさんの人生経験を、いいタイミングでぜひ分かち合ってください。
ハスノハに相談を寄せていただき、有り難うございました。
質問者からのお礼
お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
啐啄同時、という言葉を教えていただき、調べたりしました。
たしかにその通り、お互いの関係性やタイミングがとても大事だとなのだと思います。
また、魅力的なあなたになることは、今からでもできますね、という言葉にとても反省と感謝をしています。
今からでもできる、なれる、と思って精進したいです。ありがとうございます。