自分を信じること
病気で産んであげられなかった我が子について、こちらで悩みを聞いて頂き、数年が経ちました。
当時は大分考えが偏り、自分を責め、とてつもなく苦しく辛い日々を送っていました。しかし、こちらのお坊様方に親身に何度も話を聞いて頂き、「いい加減に前を向かなければ。我が子に誇れる自分にならなければ」と、段々と片寄った考え(結果自分が死んだとしても、産むべきだった。私は生きている価値がない。など)が修正されてきました。
私はこれまでずっと、自分自身に自信がありませんでした。中絶を自分一人で決めたのではなく、主人やお互いの家族を交えて、回りからの意見を話し合った上で、夫婦で背負っていこうと決断しました。それでも自分を責める気持ちは変わらず、死にたいとずっと思ってきました。
しかし、こちらでお坊様と仏教から、沢山の生きる糧と知恵を授けて頂きました。それらは私の中で確かに生きています。
もうハスノハで、何度も同じ悩みをお聞きする事は、終わりにする時が来たと思っております。
と、言いながらも最後にお坊様に背中を押して頂きたいのですが…。死にたいと願うのではなく、前を向いて我が子を決して忘れるでなく、世の為人の為に尽くし、我が子が笑顔で見つめてくれる人生を歩みたいと思っております。
もう私はこれ以上誰かに許しを請うたり、誰かに助言を延々と求めるのではなく、私の中に蓄積された様々な生きる糧を自分で消化し、他の誰でもない、自分自身の声を信じて生きていきたいと思っています。
もうあまりにも下向きな考えは、お坊様と仏教で改善して頂きましたから…。これからは惑わされる事なく、生まれ変わった自分を信じたいです。
そうやって生きる事への、どうか背中を押して頂けると幸いです。
今まで本当にありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
気付きながら、迷いながら、人は生きていく
他の回答僧の方々の回答を真摯に読まれ、悲しみと重荷にしっかりと向き合いながら、強いお気持ちで生きていく決意をもたれたとのこと。素晴らしいことだと思います。本当に良かったです。
亡くされたお子様に限らず、故人に対して「あなたのことは忘れない。」「あなたと共に、自分自身が成長できるよう、生きていきます。」という気持ちを伝えて供養し、日々生活していく。これからも、亡くなった命に手を合せる気持ちを、御自身が生きる力になさってください。
そういう気持ちにちょっと水を差してしまうかもしれませんが、余計な一言を述べさせていただきます。
私もそういう気持ちで供養に努め、日々の生活に励んでいるつもりです。大きな気付きをいただいた時、ありがとうございますと仏様に感謝する一方で、「自分は悟りの境地に至ったかも。」という勘違いをしてしまう阿呆な自分も居ます。お子様たちの成長の中で、知識や思考力が高まり自我の成長が感じられ一方で、時には「狡さ」「脆さ」「我欲」という現実に向き合わざるを得ないと思います。私事ですが、私の子供たちは何とか成人を迎え大学を卒業することも出来ました。私に似ないで妻の方の良いDNAを受け継いだんだなあと思うこともあれば、何で俺の悪いところが似てしまったのかなあと、遺伝子の部分だけでも一喜一憂しております。同時に、どういう環境の中でどういう人と関わったかによって良い影響を受け人格形成の糧となる場合もあれば、悪影響を受け道を踏み外す場合もあります。今後も、自分自身の抱える業と周囲とのかかわりの中で、心も身体も揺らぎながらも、何とか仏様の光で道を照らし進んでいくしかないと思っております。
あつこさんの場合、きっと今のお気持ちのまま真っすぐに歩まれると思います。応援しております。但し、生きている限り、新たな悩みや迷いは必ず生じてきます。それは不甲斐ないことでは有りません。当たり前のことなんです。一人で解決できる場合もあれば、相談したり力を借りたりすることが必要な場合もあります。一人で悩み苦しんだりしないで、誰かに打ち明け聞いてもらうことも大事です。どうぞ、またhasunohaにも御訪問ください。
迷っても生きていける道
あつこさんおはようございます。お久しぶりにご縁をいただきます。
これまでたくさん苦しんでこられましたね。ご自分を責めてお辛かったですね。
でもその期間は無駄なものだったでしょうか?いらない時間だったのでしょうか?
もちろんなければなかった方が楽ではあったかもしれません。しかし、今こうして気づきを得たあつこさんだからこそ、その苦しく辛い時もその子からいただいた大切な期間だったのだと受け止め直すことができるのではないでしょうか。
あつこさんは仏教の教えで変わったのでしょう。その変化は仏様の教化(きょうけ)によるものです。化(け)とは化けるというような意味合いですが、まさに元の在り方からは性質が全く変わったけれども、しかしあつこさんがあつこさんであることには変わらないというような変化です。
気をつけたいのは性質が変わったけれども、私たち人間がもう惑わされなくなるようなことはないということです。
縁さえととのえば迷い、下向きにもなります。また自分を責めることもあるかもしれません。
でもこれまでと違うことは、その時にその迷う自分の感覚を正しい根拠として物事を考えるのでなく、苦しいのは自分の感覚を中心に扱うからではないかという仏様の視点を得たことです。それが仏様の智慧です。
私たちが智慧を得て仏様のように迷わない存在になるのでなく、仏様の智慧によって照らされ続けているという気づきを得たのです。
その気づきがあれば安心して迷っていけるのです。苦しみも辛さも自責もただそのままに終わらないものとして転じ活かされていくような利益をいただくのです。
間違いのない自分を固めようとするのではなく、ブレない信念を築こうとするのでもなく、迷いブレながらでも生きていける教えと出遇い続けていきましょう。
その出遇いはお子様からいただいたものです。その出遇いにおいて、お子様は仏様であったのだなと出会い直されていくのではないでしょうか。
質問者からのお礼
吉武様(回答を頂いた順番に、お礼を書かせて頂いております。吉田様へのお礼が下になってしまい、申し訳ありません)
おはようございます。回答ありがとうございます。
吉武様のおっしゃる通りです。私のせいでこの世に産み出す事は叶いませんでしたが、あの子が教えてくれた事は、数え切れない程あります。それに気が付かせてくれたのが、仏教の教えでした。また迷う時、下を向く時が来ると思います。
自分が何の迷いもない、崇高な人間になったとは、勘違いしておりません(^^)ただ、あぁもうおしまいだ…と落ちていくのではなく、これまでの仏教の教えを思い出し、生かし、仏様によって支えられている私だという事を忘れずに精進して参りたいと思っています。何年も自分を許せず苦しんでおりましたが、この事については、十分過ぎる程の知恵や教えを、授けて頂きました。そのおかげで、この事について私の中でやっと答えが出ました。それを大事にしていきたいです。
吉田様
回答ありがとうございます。吉田様のおっしゃる懸念が、とても良くわかります。私はまだまだ未熟で、自分に完全な自信があるような、崇高な人間になれたと勘違いする事はないようにします。
この事についてもう何年も同じ悩みばかり聞いて頂きましたから、その暖かい教えは膨大な物です。それらを確かに自分の中に仕舞いました。
他の事では、もちろん沢山悩み迷う事もあると思います。その時は、またお坊様のお知恵を頼らせて頂きたいです。
この事についてのみ、もう自分で区切りをつけたいと思います。同じ悩みを繰り返すばかりでは、何も前に進めまない、何の解決にもならないと、気付かせて頂きました。辛い苦しい、とまた質問を何年も繰り返すのではなく、今まで十分に頂いた仏教の教えを思い出し、それらを信じていこうと思っております。決して自分の力だと奢ったりせずに、救ってくださった仏様の教えを信じたいです。
吉武様、吉田様、ありがとうございます。私のこれからの生き方は、これで良いでしょうか?