体への嫌悪感、存在したことの悲しみ
はじめまして。
最近自分のことを考えるなかで思い詰めてしまったため、なにかご教示頂ければと思い質問させていただきました。
私は自分の体全身がとてつもなく嫌いで、生理的に受け入れるのがつらい状態です。
例えば、今この文章を打つために視界に入っている手が憎かったりします。
人間は体がなければ存在できないため(霊魂とかそういう点は除いて、です)、もうどうしようもないのです。
自分自身のことが嫌いで、生きているのが悲しいです。
このような状態で思い詰め、今次のような悲しみに苦しんでいます。
1. 私はなぜ存在してしまったのか
2. 私はなぜ今も存在し、そして存在が続いてしまうのか
3. 今の私を終わらせたとしても、私が過去に存在していたことは消せない。だから今を終わらせたとしても悲しみは癒えない。
3番目の内容によってとりあえず生きていますが実感はなく、とりあえず生が続いている、というような状態です。
生を消費している、というような感覚です。
これらの悲しみに、どのように対処すればよろしいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
執着しないで
はじめまして。
自分のことが嫌いですか……好きになる努力とかはしませんか?生きているのが悲しいなら楽しくなるようには出来ませんか?
さて、ひつじさん。難しいことを色々と考えておられるようですね。体が、いや、脳がひたすら考えて考えて、袋小路に達してしまっているように思えます。
私も色々と考え込む性格でしてね。なんとなーく、自分と重ねてみているのですが、ある医者に「考えて疲れるくらいなら寝てしまえ」と言われたことがあります。確かに、体を動かさず、頭だけ動かしていると、どうしてもマイナスマイナスへ気持ちが持ってかれるんですよね。そこで、医者の言われた通りに、頭が切羽詰まった時は、極力眠るようにしてます。5分でも10分でも眠れると、起きた時は少しスッキリしてますよ。やってみて下さい。オススメです。
正直に言わせて頂くと、ひつじさんの悩みの解決方法として、これだ!と言い切れるものが見つからなくて。とても哲学的なことを考えられているので難しくて。仏教に結びつけて、それとなく返すことは出来るのかもしれませんが、どうもしっくりきません。
なので、ひとつだけ。お釈迦様は「執着するな」と教えられてます。物事にとらわれ過ぎると、本質が見えなくなるということです。そして、「執着しない、ということにも執着するな」と仰られております。
執着は苦しみを生みます。
どうか、行き詰まったならば、心を自由にしてみて下さい。答えは無限にありますよ。