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禅と念仏

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有り難し有り難し 25

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。
一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。
真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。
これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。

他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。
これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。
念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

『黄金の蝶』。

昔々のおはなし。
『黄金の蝶』がいるというので
サイくんとツリくんというふたりの少年がぜひそれを見つけたいと思った。

しかし黄金の蝶は、さなぎからかえるとすぐに光に包まれ消えていってしまうというのでほとんど誰も見たことがない、伝説の蝶と云われているそうな。

ふたりの少年はどうしてもそれが見たい
どういう姿をしているか知りたい

そう思って、それぞれ蝶を探しまわった。

サイくんは、
蝶の姿ばかりを追い求め、「あれも違う、これも違う」と
探し回っては一生を過ごし、
とうとう見つけられず
年を取って死んでしまった。

ツリくんは、1匹芋虫を見つけると、それを持ち帰り
葉っぱをたくさん与えて育て、さなぎになってからもたいせつに見守ってやり
雨の日も風の日も、さなぎを想わない日はなかった。
やがてあくる朝、それがさなぎからかえって立派な蝶となって飛び立っていくのをみた。

まぶしい朝日の光を浴びて飛び立っていく蝶を見届けながら
「その蝶はまるで黄金のように輝いていた」と
ツリくんは思ったそうな。

求道中とのことですが、念仏にしても禅にしても
内容を比べてどの教えが良いかというのは
蝶を見て芋虫を見ないようなものです。

「教え」として接するならば
そう簡単に「どちらの教えが」ということはできません。

ひとりひとり、それぞれの「歩む道」の中でしか「教え」は見えてこない、
なにが「黄金の蝶」かなんて分からないものだからです。

まして類似点や相違点をあげたところで
それは、斉木さんの決心を後押しするものにあらず。
かえって迷いを深めることになろうかと思います。

ですから、
斉木さんが「そうしたい」と思うなら
それが一番たいせつではないですか。
いたってシンプルだと思います。

教えの違い云々を理由にするよりも
斉木さん自身の道であることが一番の理由になると思いますから。

念仏と禅の教えがほぼ同じようなものだとおっしゃいましたね。
もしそうだとするならそれはですね。
芋虫を大事に育てているツリくんの姿そのものが“黄金の蝶”だよ
という意味なんだろうと思いますね。

斉木さん自身が決めた道と歩む姿が
すなわち“黄金の蝶”なんだろうと。

そういう意味なら念仏も禅も変わらないと
私からは言えると思います。

                     南無釈迦牟尼仏 合掌

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吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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王いま座禅してただまさに念仏すべし。『教行信証』「行巻」

いいねー。
その若さで、よくぞそこまで辿り着いたものだ。
きっと10代というのは嘘だな(笑)

『淨土五會念佛略法事儀讃』(法照・著)
『五会法事讃略抄』(親鸞・著)

この2つの資料を研究し実践するといい。
東西本願寺のみならず、浄土真宗を名乗る宗派、僧侶、学者の中ではすっかり黙殺されてしまった資料です。きっと、あなたの今までに学んだ浄土真宗の常識が、根底から覆されるような発見があるでしょう。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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質問者からのお礼

吉井浩文様、回答ありがとうございます。
面白いお話ですね。僕はまるでサイくんですね。なんとなく想像までできる...。
道を求めても求めても納得するものがなく、結局死んでしまう。まさに僕はそのような状況です。かれこれ道を求め始めて6年(24時間365日、道の事しか考えていないくらい...)くらい経ちますが、未だ納得できるような、救いを実感できるような道が見つからない。
吉井様の言う通り、あれこれと考える前に何らかの道を実践した方が良いのでしょうね...。
回答ありがとうございました。

転落院さん、回答ありがとうございます。
僕はどうしようもなく落ちこぼれた学生です。
五会念仏について少し調べてみたのですが、座禅と念仏が合わさったような念仏行らしいですね。興味深い資料です。
後で読もうと思います。
ありがとうございました。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

有り難し有り難し 28
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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ