生きるのに疲れました
僕は男子高生です。僕は人の心をよめたり、仲のいい友達だと過去を見てしまうことがたまにあります。この力を使い、顔もかっこいいわけでもなく、何か得意なものがあるわけでもありませんが、上手くやって来ました。
でも、もう疲れました。人の心を見て、その人たちに合わせて、その場が上手くいくようにしてる間に自分が分からなくなりました。自分じゃない自分がいます。そして、人の汚いところもたくさん見てきました。もちろん人の心の綺麗なものも見てきましたが、それ以上に汚いものを見てきました。人の心に汚い所があるのは当然だとは思いますが、それでも、きっと他の人は見えてない、気にしなくていいものが見えてるのがもう辛いです。とても将来に希望を持てません。この力のことをちゃんと相談できる人もいません。でも死にたいわけではありません。命を軽んじることはしてはいけないと分かっています。でもこの先の人生をしっかり生きていける自信がありません。人を愛せるのか、愛されるのか、仕事を上手くやっていけるのか。僕は何を希望に、どのような心持ちで生きていけばいいのでしょうか?
生きたくない
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自分の意志・感情
こんにちは、初めまして。
「もう疲れました」という一言に、心の底からの徒労感と、途方に暮れた心境を伺えます。お辛いでしょう。
あなたは、人に合わせて、「その場が上手くいくように」されてきたのですね。つまり、自分の意向を押し殺して、周囲の意向を優先するうちに、自分が何を志向しているのかさえ分からなくなったということなのでしょう。雰囲気を読むということに鋭敏で、そのことを「人の心をよめ」ると表現しておられると思います。
あなたは、自分と他者との関係性の築き方が分からないのだと思います。
もう少し正確に言えば、他者に対して気に入ってもらう、見捨てられないようにするという関わり方しか無い状態なのだと想像します。
「人を愛せるのか、愛されるのか」ということが見えてこないとのこと。「愛する」ことは自分の明確な意志・感情の表現であり、「愛される」ことはこれと対の関係にあります。
だからこそ、まず自分の意志とは何か、感情とは何かという基本的なところに立ち返る必要があります。
あなたは、ご両親との関係はどうですか。
いつの間にか、自分を抑制して相手に合わせていませんか。
嫌だったら嫌、したくないんだったらしない、面倒だったら面倒と言う。
好きだったら好き、これに挑戦したいからやらせてくれ、これが読みたいから買ってくれないかと言う。
好き嫌い、嬉しい悲しい、苦しい楽しい、欲しい欲しくない、をはっきりするのです。友人など他者にいきなりそう相対するのは抵抗があるかもしれませんから、まずは身内から始めていくのがより安全で宜しいと思います。
あなたは、「人の心の綺麗なものも見てきました」、「それ以上に汚いものを見てきました」とあります。では、あなたは自分の心の中の「綺麗なもの」「汚いもの」が見えていますか。自分の意志、感情が顕になればなるほど、それはもっとあなたの中でクリアになっていくでしょう。さすれば、それは決して他人事では終わらないこととしてあなたの心に馴染んでいくと思います。
愛すること、愛されること、将来への「希望」。
それは、今の自分を少しづつ意識し、少しづつ変えていくことで確実に明るいものになります。
応援しています。
質問者からのお礼
返信ありがとうございます。幼少期に、親にあれが欲しいと言った時にダメと言われたことと、欲張りはいけないって言われてから、あれが欲しい、これをしたいって言うのが苦手でした。これからは少し自分の感情を出していこうと思います。ありがとうございます。