瞬間を生きるとは
瞬間を生きるとは、瞬間瞬間猛烈に何か作業したり慈善活動をするということではないですよね? 瞬間瞬間遊び呆けて楽しむということでもないですよね? 横になるのはよくないことですか?
なにも思い通りにならないのであらゆる生命に関することが滅ぼされた状態になりたいです。欲を流すようにしていたらもう何もしなくてもいいと安心できた気がしました。
やっぱり何かした方がいいのでは? と悪魔に囁かれている気もしますが、あ、欲がある。流そう。で流した方がいいですよね。このまま続ければ生きたいという気持ちも吹き消せるでしょうか。消せたら救いだと思います。
どうもまだ芸術活動への執着があるらしく心が二つに引き裂かれている気もします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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【正念】「八正道」
"瞬間を生きるとは"
ん?「今、この瞬間を生きる」という事ですか?
過去にとらわれると後悔に取り憑かれる。
未来にとらわれると不安に取り憑かれる。
だから、今ここ、この瞬間瞬間に意識を集中することで後悔や不安を心の中から追っ払っていくという技術はあります。しかし、それは過去の反省や将来の計画を立ててはならぬということではありません。
仏教の教える「今ここ」つまり【正念】は、今さえ楽しければ、あとはどうでもよいという【刹那主義】とはまるで違うものなので、しっかり区別しましょう。
<追記>
"とずっと思っていれば渇愛も消えるでしょうか"
どうでしょうか。
ありもしない事を強引に思い込むのは盲信ですよね。満足なのか不満足なのかではなく、たとえばお皿を洗っているときは「今、お皿を洗っている」と頭の中で実況中継するように、今している事に意識を集中するんだとベトナムのティク・ナット・ハン師などは指導されています。日本人でいえば、プラユキ・ナラテポー師が【手動瞑想】というものを指導されています。私も教わりましたが、少し慣れれば、なかなか簡単でやりやすかったですよ。https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(振り出しに戻る)という【十二縁起】というサイクルをどこかで遮断すれば、サイクルがサイクルたり得なくなる、つまり【無明】に戻らなくなるという話です。もちろんこれを持続するには訓練が必要ですし、やめれば元に戻ってしまいますが、この苦悩のサイクル【十二縁起】が断たれた境地?感覚?ああ、こういうのもあるんだ、という経験はできます。この経験が有るのと無いのとでは、また違ったものの見方になるでしょうね。
質問者からのお礼
迅速なご回答ありがとうございました。区別が大事なんですね。
瞬間瞬間満足して、不満が残らないようにしたいです。
私は満ち足りている私は満ち足りているとずっと思っていれば渇愛も消えるでしょうか。