自分の人格に自信が持てない。
こんにちは。僕は自分の人格にどうしても自信が持てません。物心ついた頃から人間不信です。基本的に人には期待していません。自分でなんでもやっちゃいます。それで嫉妬されます。それが怖くて人を避けます。また孤独になります。6年前に付き合っていた元カノになんでそんなにネガティブなのと言われましたが、結局自分自身の心に自信が持てないので、ポジティブがわかりません。そして親も恐らく同じくネガティブな人たちでした。自分がどう思われるかを深読みしすぎます。それが態度に出ます。それがまた他人の不信を生み、また自分が苦しみます。人と仲良くなっても疑います。この人はなんの為に僕と関わっているんだろうって思ってしまいます。恋人が欲しいのに疑ってしまう為に良い感じになっても避けてしまいます。それが他人の気持ちを踏みにじる事になり、また孤独になります。こんな事を考えれば考えるほど僕は幸せになってはいけないような気分になります。でも幸せになりたいです。心から人を愛したいです。僕はどうすれば幸せになれるのでしょうか。他人の気持ちがわかりません。自分の気持ちもわかりません。僕には心がないのかと思います。率直な意見をください。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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中途半端
"率直な意見をください"
率直なところ、あなたはネガティブさが中途半端なんだと思います。
たとえば、仏教とは究極のネガティブであるといえるでしょう。どこまでもどこまでもとことんネガティブを追求し、究極のネガティブを極めた末の大発見が、【悟り】という無上のポジティブであったといえると思います。
他人の気持ちが分からない自分を許して
僕には心がないのかとのことですが、心が無いのなら悩みもしないと思いますが、、、、
また、人格に自信が持てないとのことですが、人間不信でもあるのですね。人間が信じられないのなら、人としての人格なんて捨ててしまえばいい。しかし人格に自信を持ちたいというのなら、実はやはりどこかで人間を信じたいという気持ちがるのではないかと思いましたが、いかがでしょうか。
そんな状況で、他人を信用できないのは辛いですね。ただ、他人の気持ちは永遠に分かりません。あるのはこちらの解釈だけです。もしかすると「信用してはいけない」とするたぬきさんがいるのではないかと思いました。
人を見下してしまうとのことですが、見下すとはつまり、自分に自信が無かったり、自分と比較してライバル視しているということです。自分に自信や余裕があれば、見下したりなんかせずに、手を引いてあげるものですから。
たぬきさんは、ここまで自分に向き合い、自分を変えていきたいと思われているのですから、私は立派だと思います。世の20代の若者の手本です。かつての私もそうでしたが大抵の若者は、根拠なく自分を優れていると思いがちなんです。
どうすれば幸せになれるかとのことですね。私にとって幸せとは、幸せってなんだろう?そう考える瞬間です。たぬきさんの思う幸せとはなんですか?
ただ、考えること自体を辛く感じる人もおりますので、その点はお気を付けいただきたいのですが、まずは手始めに他人の気持ちが分からない自分を認めて、許してあげてほしいと思います。自分を許すことで、やがて他人も許し、認めて、愛していけるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
増田 俊康さん
人格をすててしまうという考えは僕にとって新しいものでした。人は信じたいです。ちょっとづつ信じようとして見ます。幸せについてもっと考えてみます。丁寧で優しいご意見ありがとうございます。
転落院さん
「中途半端」という言葉に笑いました。なぜなら父にも先日言われたからです。父に言われたときは何が中途半端なのかわかりませんでしたが、これではっきりしました。覚悟して進んでいきます。ありがとうございます。