好きなことを好きと言えない
好きなことややりたいことを言えません。
恥ずかしいとか、怖いとか、そういう感情が先に出て、親にも兄弟にも言えません。
だから1人でお金を貯めて、必要なものを買おうと思っているのですが、現実的でないものもあります。
こそこそと郵便物を受け取るのも難しくて、お金を出してとは言わないから見逃して欲しいのです。
ものを買ったり、部屋にこもって作業したりの許容をして欲しいです。
こういう風に書けはするのですが、実際に話すとなると上手く話せなくて、伝えられません。
また、とても恥ずかしいのです。
夢も希望も恥ずかしいことだとはおもっていないのですが。
どうすれば私は堂々と好きを口にすることが出来るのでしょうか。
また、なぜ私は恥ずかしいと思ってしまうのでしょうか。
隠れてこそこそするのは嫌です。
ご助言をお待ちしています。
すぐに嫉妬してしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
練習だと思って、もっと具体的にここで書いてみて。
核心に触れていないので
何が恥ずかしいことなのか
見当もつきませんよ。
隠れてコソコソするのが嫌なのだから
堂々と口にすればいいのです。
せめて家族には
話しても良いんじゃありませんか?
人前で何かを表現するのはなかなか難しいものです
拝
私達日本人はシャイですからね
大体の人が人前で目立ったことをするのが苦手です
かくいう私も、または、ほかの僧侶の方も
大概はじめて人前でお経を唱える時は恥ずかしい
自分がそれに向いているかなんて事は関係なくお祈りをしなければならないわけです
毎日ですよ?
考えただけで恥ずかしいでしょ
お祈りのやり方を誰かに教わるわけではありません
自分で模索していくしかないのです
恥ずかしいのも通り過ぎ
施主さんに誠の感謝を頂くころになると
次第に色々見えてきて目に見えない世界に手を合わせるのも楽しくなってきます
そして尚自他の苦しさとも向き合い真剣に没頭するようになります
でもこれ参列される方々からしてみれば私が好きでやっているかなんて関係無くて
真剣な姿勢で「目に見えない大切な事」と向き合っているかなんですね
わかりますか?
好きかどうかは本人にとっては、事を続け極めるための理由としては重要かもしれませんが、相手からしてみれば他人の「好き」なんてどうでもいいのです
同じことが好きな人なら通じるかもしれませんが
そもそも同じ価値観の人同士でなければ共有できない感情です
「好き」とは仏教では執着であると説きます
例えば「楽しい」この表現は瞬間的感情であり執着ではありませんが。
これを「もう一回」とか「もっと深く」とか、「次はみんなと!」とか「自らが!」とか
「好き」とはこうして過去の良かった記憶から未来へとつながった線的な感情です。
未来に何か叶えたい夢が出来たゆうさんだからこそ芽生えた「好き」という感情はとても素敵ですが、これを誰かに伝えるためには「好き」を「形」にするしかありません。
形にならなければ妄想ですがそれではダメです
現実的でないものも必要であればどうやって現実に変えていくか考えます。そうして必死になって目標に近づいていると、他人に「好き」と知ってもらう必要なんてなくて、言う必要も無いのです。
ほら!このhasunohaの回答するのだってすごい恥ずかしいんだよ
みんな見てるしさ
わかるでしょ~
それでも必要と思って自分で決めたからやってるんだ
そのうち恥ずかしいよりもきちんと相手に寄り添えたかどうかのほうがはるかに大事になってくるんだよ
まとめます
恥ずかしいってのは
自分が未熟だってことの現れなんだよ
人の心を突き動かすのは取り組む姿勢です
合掌