勝手な思い込みかもしれませんが。
いつも、お返事ありがとうございます。
毎回、お坊さま方々の優しいお言葉に励まされ、何とか生きています。
我が家には、お仏壇があります。
朝晩にお茶、お水、ご飯をお供えし、出掛けてる時には行って来ます!帰った時にはただいま!と声をかけています。
最近なんですが…。朝の挨拶で「いつもありがとうございます。今日も一日頑張りますので宜しくお願いします」と呟やきながら、義父母の遺影を見ていると、「○○、今日も頑張って!大丈夫!大丈夫だからね!」と言う言葉が、胸の中にスーッと入って来たのです。
きっと、自分の勝手な思い込みなのかも知れませんが。
挫けて涙が溢れて。生きていく事に疲れて。もうダメだ。もうダメだ。って思う事も沢山ありますが。
お仏壇?義父母?からの大丈夫!大丈夫!と言う言葉に救われてもいます。
娘の遺影も優しく笑いかけてきます。
私は、弱くて頼りなくてダメな人間で、死にたいと言う想いもいつも頭の片隅にありますが。
何だか、まだ大丈夫!死ぬにはまだ早い!大丈夫!きっと幸せになれるって励まされている様な気持ちになります。
ホントに勝手な思い込みでしょうが、お仏壇に手を合わせることで、何となく私は救われていると思います。
纏まりのない話しで申し訳ありません。
亡くなった人達と心と心で繋がっているって思ってもいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『生と死がひとつになる』。
『亡くなった人達と心と心で繋がっているって思ってもいいのでしょうか。』
つながりも何も
ゆきりんさんのひとつひとつの行いが
すなわち皆さんの心をひとつにしていると思いませんか。
朝晩にお茶、お水、ご飯を『お供えし』
行ってきます!ただいま!『声をかけています。』
亡くなられた方々の言葉に『救われてもいます。』
娘さんも『優しく笑いかけてきます。』
ひとつひとつの行いが
ゆきりんさん含め
亡くなられた方々の心をひとつにしていると思います。
亡くなられた方々とひとつになっているというと
日本の習俗上、気味悪がられることがあります。
しかし仏教では生と死を分断されたものとはみなしません。
【舎利礼文(しゃりらいもん)】というお経があります。
短いですが、
亡くなられた方々との対話や、声掛けや、礼拝や供養を
通して、「生と死がひとつになる」。
そこにかけがえのない救いがあると強調しているお経だと
受け止めています。
私たちは生きている。
生きているにもかかわらず、それは同時に死んでいくことでもある。
亡くなられた方々も
亡くなったにも関わらず、生きている人たちにとって相変わらず大切な存在であり続けている。
それならどう考えたって、生と死は分断されていない。
同じように
生者と死者も別々に存在するのではない、と考えた方が自然だと思うんです。
私たちはいつも一緒だよと。
ゆきりんさんが笑顔になれば一緒に笑ってくれ、
悲しければ一緒に涙を流してくれる。
ゆきりんさんを大切にしてくださった方々だからこそ
それは“つながり”ですらなく
もはや“ひとつ”なのだと
私は思うのです。
平等大智 今将頂礼 合掌
ありがたいことです。
ゆきりんさんの優しい温かい感謝の思いが、お父様お母様に届いています。
これからもご主人をはじめ家族を守り、常に笑顔で楽しく前向きに生きてください。
それが一番の親孝行であり供養となるのです。
感謝すればするほど、絆は強くなります。
ありがたいことですね。