亡くなった愛犬に謝りたいです
1ヶ月ほど前に11歳のゴールデンレトリバーの飼い犬を看取りました。
てんかん発作で脳腫瘍が発覚して寝たきりになってから、短い間でしたが最大限可能な
限りの介護を行うことで少しでも恩返しをする事ができたと思っていました。
亡くなる時は昏睡して安らかに逝くか、てんかん発作が止まらなくなりそのまま苦しみながら逝くかのどちらかだと獣医に言われており、亡くなる5時間ほど前からは意識もなくなり、何度も呼吸が詰まっては息を吹き返すような状態を繰り返していました。
しかし、息を引き取る数秒前に突然目を開き、動かなくなっていたはずの前足を懸命に動かして上半身だけでも起き上がり、体を捻り、大好きだった母親の方へ顔を向けようとしたのです。
私はその行動が最期の力を振り絞ったものではなく、てんかん発作が起こってしまったと勘違いしてしまい、獣医から言われていたことを思い出し、倒れて怪我をさせてはいけないと咄嗟に抱き抱えてしまいました。
私は普段から愛犬が起きあがったり、後ろ足で顔を掻いたりするときに体を支えてあげていたので、そのとき抱えられて安心したのか愛犬は私に体を預けるように力を入れるのをやめ、私は支えるつもりで抱えたわけではなかったため、そのまま愛犬は母親の方を向くという最期の願いも叶えることができずに横たわり、亡くなってしまいました。
愛犬の最期の行動の意味を理解したのは亡くなった後で、そのときに私が最期の行動の邪魔をしてしまったことに気がつきました。
信頼して体を預けてくれた愛犬の思いを汲み取ってあげることができず、挙げ句の果てに邪魔さえしてしまったことに後悔が尽きません。愛犬のこれまで生きてきた犬生の全てを否定してしまったような気分です。
生前の楽しそうな写真や動画を見ても、最期には私に邪魔をされて無念のまま亡くなってしまうのだと考えてしまって、やるせない気持ちになってしまいます。
私はどうしたらよいのでしょうか、どうにかして愛犬に謝罪の念を伝えることはできないでしょうか。
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無明性を問うことも一策ではないでしょうか
愛犬はまよ羊さんに最期抱きかかえられて、苦しむことなくいくことが出来て、幸せだったのではないでしょうか。11歳のゴールデンリトリバーですから、大型犬にしては長生きですし、ひょっとしたら目も白内障で見えてなかったかも知れません。いずれにしても、愛犬は大事に育てられて、最期も家族に囲まれて苦しむことなく生き切っていった訳ですから、悔いはないのではないでしょうか。
でも、まよ羊さんがそうは思えないのであれば、無明について考えてみられてはいかがでしょう。人間は沢山の知識をもっていますが万能ではありません。今回は獣医さんよりてんかん発作の知識を教えて頂くことで、まよ羊さんの判断が正しければ、最期に力を振り絞った行動に気づけなかった訳です。私たちは知識があることで逆に真実を見えなくしてしまうことがあります。それを無明といいます。
私たちは仏さまではありませんから、物事を見る時に偏りがあり、正しく見ることは出来ません。人間の判断は常に危ういと言っても過言ではありません。そのことを愛犬は身をもって教えてくれたのではないでしょうか。年を取れば取るほどに、人は自分の経験に固執して冷静に物事が見えなくなっていきます。無明とは何も知らないことではなくて、どんなことにも答えを持っていることです。答えを持っているので、それが間違った知識であっても、問い直すことが出来ないのです。今回のことも、獣医さんからの知識が無ければ、愛犬の様子を見ながら、どうするべきか悩みながらも的確な行動が出来たかも知れません。
今回の経験をご縁に、ご自分の無明性を深く見つめることが、しいては愛犬の供養に繋がっていくのではないでしょうか。
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございます。
「無明性」、私の頭からは出ることのない考えであり目から鱗でした。