hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

兄弟の関係を良好にするにはどうしたらいいですか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

今、長男20歳次男18歳です。関係が悪くなったのは次男が中学校に入ってからです。最初は、小学校まで一緒の学校だったのですが、受験をして別々の学校に

なりました。長男と同じ学校も受験をしたのですが、私に同じ学校には来てほしく無いと訴えました。その時は何を言っているのか意味がわかりませんでした。

結局、違う学校に通うことになったのですが、次男が通っている学校は、長男が一番行きたかった学校でした。
それから8年間ほとんど口を利きません。

私たち夫婦はこれはあまり良く無いねって事で、2年前から月に一度家族会議を行うことにしました。
結果としては、本人たちが本音を言わないのでなかなか

変わりません。しかし続けることが大事かなぁと思って続けています。長男の方は親子の会話もほとんどありません。中学生の反抗期みたいな感じです。

子供たちとどうコミュニケーションを取ればいいかちょっとわからないかんじです。私達の気持ちは伝えているので頭ではわかっていると思います。

もういい大人なので成長して欲しいですし、親の気持ちもわかってほしいです。
一番は、自分の気持ちを私達に伝えてほしいです。

意見を頂ければ嬉しいです。
よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

リアル北斗の拳

私のお寺に納められている経典「北斗の拳」の中に、次のような名言があります。
「兄弟ならば別々の道を歩め!!」
主人公ラオウに歯向かって来た兄弟がいました。
二人して、拳法の道を歩んできたその兄弟をボコボコにしながらラオウ和尚は上のように説きました。
ラオウには、兄がいました。病弱な弟トキもいました。次男坊だったのですね。
ところが、実家の蕎麦屋をカイオウお兄ちゃんに譲る為に家を飛び出して東京で丁稚奉公。
兄を家長として盛り立てるためにあえて家を飛び出したのです。
東京の老舗のラーメン屋「北斗の軒」でリュウケンさんという禿げ頭の厳しい大将の元でラーメン修業の日々。
やがて大勝軒のように全国規模で展開するにあたってお店の名前を「北斗神軒」と改め、そのお店ののれん分けや相続権をめぐって社内の4人の義兄弟と対立。タレでタレでを洗うの日々。誰が一番おいしくラーメンを作れるか。最終的に末っ子で弟の軒四郎が年老いたリュウケン好みの麺の茹で方であったために「北斗神軒」の代表取締役の座を奪われてしまい、兄のラオウは独立企業。
壮大な兄弟ゲンカの物語です。
日清のラ王のネーミングがここから始まっていることは言うまでもありません。(ウソ)
母親には分からないでしょうが、兄弟にはそれぞれ個性があります。
同じ道を歩ませない方がイイのです。
私にも兄がいますが、性格全然違う。
同じかと思っていましたが、全っ然違うと気づいたのは35過ぎてからでした。
親としては仲良くさせたくてしょうがないのですが、ほっといて大丈夫っス。
私は兄は兄でリスペクトしています。自分に無いものを持っているからです。
嫁さんできればどんどん距離ができるでしょう。
それでも兄弟の絆は切れないのです。表面的には仲が悪そうでも大丈夫なのです。
さて、ラオウさんの心境を考えまするに「兄弟ならば別々の道を歩め!!」とは、どんな心境から吐露された言葉でしょうか。
それは兄弟というものが何時も親によって比較されたり、優劣を評価されるのは地獄の苦しみでしかない!!オレは悲しい!悲しかったぜ!!と言っているのです。
ひょっとしたらあなた達、親が兄弟の中を何らかの比較や家庭のルールによって引き裂いてしまったのではないでしょうか。それぞれを認めてあげてください。
親の呪縛を説いてあげれば、それぞれの道を歩むようになるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ