有り難くないからお礼を言わない?
当方は、お世話になっている方に言葉のお礼以外で、
少しでもお礼をすることが大好きです。
もちろん、相手にその見返りを要求してはおりません。
しかし、何もないように平然とされると心に穴が空いた気持ちになります。
せめて、一言のお礼か笑顔でも有ればと充分ですが、
それは見返りを期待している、親切の押し付けになる?のでしょうか。
相手は、有り難くないからお礼を言わない、
押し付けられているから、平然としているのでしょうか。
各々のしつけや育った環境などもあると思いますが、
相手の心理が分からず、もやもやします。
どうぞ、相手を理解出来るような解釈をご教示下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【布施行】【慈悲喜捨】見返りを求める心との闘い
例えば、東南アジアなどの原始仏教を色濃く残す地域にて、托鉢をするお坊さんの鉢に食べ物を入れた時、もしあなたの顔を見て「ありがとうございます」などとお礼を言ったならば、そいつは偽物坊主です。
なぜかというと、【布施】はする側の徳を積む修行であり、お坊さんの側は、あなたに修行をさせてやった側というシステムになります。だから、お礼を言わなければならないのは<徳を積ませてもらった側>つまり施主のほうなのです。一方、坊主のほうは施主の顔も見てはいけません。見れば「あの人はいつも豪華なモノを入れてくれるが、アイツはちゃちいモノしか入れてくれない」などと横着な分別の心が湧き、都合の良いほうへ【執着】する心が湧いてきてしまうからです。
このシステムは正直、日本の文化、常識とはあまり相性がよくありません。だから、あなたのちょっと寂しいような残念なような気持ちはよくわかります。しかし、ここで腹を立てたり、謝礼や見返りを相手に催促したり、相手を批難するようなよからぬ事を心に思ってしまえば、せっかく積んだ徳が台無しになってしまうかもしれません。何より憂慮すべきは、あなたがもう嫌になって施しを止めてしまうことです。
「なぁんだ、結局オマエは見返りが欲しいんじゃねーか」
魔王マーラのほくそ笑む顔が見えるようだ。どうか魔に憑かれることなく、これからもあなたなりの方法で【布施行】を続けてくださいませ。
雑毒(ぞうどく)の善
こんにちは、初めまして。
中国の高僧、善導大師(せんどうだいし)のお言葉に、表題のごとく「雑毒(ぞうどく)の善」という言葉があります。
人間には、善と思い定め、行う所には例外なく毒(煩悩)が雑(ま)じっている、ということです。つまり、自分中心の視点・都合でものを考えている、という煩悩はそれだけ根強いということです。またこれは、人間が善を積んで功徳を得て、その延長線上に仏様に成ることがいかに難しいかを教えてくれるものです。
あなたは、「相手にその見返りを要求してはおりません」と言われていますが、それはあくまで「見返りを要求して」いないつもりで、その実「雑毒(ぞうどく)の善」なのではないでしょうか。事実、相手がそっけない態度を取ると、「心に穴が空いた気持ちに」なるのはその証左ではないでしょうか。これは、あなただけではなく、人間一般全てに普遍的に該当する、或いは問題になることです。
「相手の心理」は、本人に聞くのが一番わかるのでしょうが、実際そんなことは出来ないでしょう。「しつけや育った環境」かもしれないし、「有り難くないから」「押し付けられているから」かもしれません。しかし、それは正確には分かりがたいものであり、当の本人だって分かっていない可能性だってあります。たまたま虫の居所が悪かったから、という単純な理由かもしれません。
そのように藁山の中から針を探すよりも、確実に問えるのは「雑毒の善」たる自分の在り方のみです。まず、自分の有り様の確認をすることのが宜しいでしょう。
この自分とどう向き合っていくかは、各宗派違いがあります。
ここでは字数制限がありますので、ご縁あったら以後改めて相談していただいてもいいでしょう。
質問者からのお礼
淨流寺 転落院先生
ご回答頂きまして、有難うございます。
「鏡の法則」を説いて下さり、目が覚めました。
仰る通り、徳を積ませて貰っている感謝をすべきでしょう。
付き合いが長くなり、徐々に変わって行く相手に
何の感動も持ってもらえないことが、寂しくなりました。
この方には、お礼をお終いにして、他の方に心を込めたいと思います。
私は、一期一会を大切に、これからも
すぐその場で心を込めてお礼を言い続けます。
心を平にして下さり、有難うございます。
報恩寺 釋 悠水先生
ご回答ありがとうございます。
仰る通り、矛盾した話です。
頂きました文面を拝読し、
相手の心を理解する必要はない、と理解しました。
私は偽りなく、真心を込めていましたから、
後ろめたさはありません。
もう、相手の心までを理解することはやめます。
それよりも、少しでも力になれる相手に何かしたいと思います。
当方は家が曹洞宗ですが、
宗派関わらず、当方を見つけ、
かけて下さいましたお心とお言葉に感謝致します。