私の意識とはなにか
以前、死が怖いと相談させて頂いた者です。ご回答を頂いて以来、それを胸に、心の持ち様や認識を変えたりして、素人ながら試行錯誤しつつ、死をどうにか受け入れる練習をしています。
しかし、死について考えると、私の今ある命や意識は、そもそも最初はどこからきたのだろう?と考えてしまうのです。肉体は勿論母から生まれましたが、生まれる前、私の意識(精神)はどこにあったのでしょうか?生まれる前、というのは、死んだあとと同じなのでしょうか?
これを考えだすと、生きていること(意識があること)それ自体が気持ち悪いように思えてしまうのです。なぜ今、私に意識があるのか?と考えてしまいます。なんというか、常に、ゲームの世界の住人のような気分?なのです。私は、誰かによって作られた世界の中に放り込まれ、意識が芽生え、それ故に死の恐怖に苦しみ、そして必ず死ななくてはならない。宇宙規模で考えれば些末な出来事であるけれど、私という個人にとっては、その事実がとても怖く、苦しいのです。こんな理不尽耐えられない、と思って、どうしてもこの世界の仕組みを恨んでしまいます。
私の意識とは一体なんなのでしょうか。そして、生まれる前はどこにいて、どこに死んでいくのでしょうか。私の意識はどうなるのでしょうか。
そして、そんな恨んでしまうようなこの世界を、どうしたら愛せるのでしょうか。大切な人と出逢っても、必ず最期に離れ離れになってしまう。私が愛した「私」も、必ず消えてしまう。日々の小さな幸せを感じるほど、死というこの世界との別れが辛くなり、恐怖で押しつぶされそうです。
それでも折角いただいた命を生きぬかなくてはならない、と思うのです。生きぬくために、どうかご助言をよろしくお願い致します。まとまりがなく、分かりにくい文章で申し訳ありません。
死と別れが怖い。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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空と縁起
くうさま
なかなか本質的なことに関わるご質問でございます。
仏教では因縁果の論理を大切に致します。
命や意識というものも、因縁(原因と条件)によって得られる結果となり、また、その結果の命や意識も、やがて因縁となりて、更に結果へと向かっていくものとなります。
その因縁果の流れにあるものにおいて、では、命、意識の実体とは何であるのかとなっても、実はその実体というものは見当たらないというのが、仏教における「空」の見解となります。
では、虚無なのか、絶無なのか、と申しましても、何もないわけではありません。
確かに、今、現在においては、貴女さまも、私も、命、意識というものが働いています。
ですので、無いわけではないのですが、あり得ているのは因縁による「仮」的なことにおいてであり、この因縁において「仮」的にあり得ていることを仏教では「縁起」として成り立っているものと言うことになります。
この「空」と「縁起」を正しく理解していくことが仏教においては大事なところとなります。
そして、今の命、意識というものも、未来の結果へ向けた因縁になっていくということを理解できれば、その命、意識を善き因縁とすることによって、善き結果(次の命、意識等)へと向かっていくこともできるということが類推できるのではないだろうかと存じます。
仏教の基本は、善き因縁(仏道)に努めて、善き結果(悟り)へと向かわしめるというところであります。
是非、仏教の実践について学び努められて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口 英俊 様
お礼が遅くなり申し訳ありません。
誰かに相談しても厨二病なだけだ、と揶揄われてしまい、それ以来誰にも話せずにいた悩みでしたので、今回このようなご回答が頂けてとても感謝しております。ありがとうございます。
因縁について教えて頂き、とても心が軽くなりました。私は因縁によってここにあり、私があることによってまた新たな因縁がうまれる。しかし、実体がない。これを「空」と仏教では呼ばれるのですね。「空」の部分が、私がずっとモヤモヤしていた部分らしいとわかりました。また、因縁についても、原因と条件によって結果的に私がいるだけ、というのも、すごくふに落ちました。
まだ、死、この意識がなくなるということに対して強く恐怖を感じますが、この「縁起」や「空」についてもっと詳しく知ることで恐怖心は薄まるかもしれないと思いました。もっと仏教に触れ、本なども積極的に読んでみようと思います。
暖かなご回答本当にありがとうございました。