人を疑うのが難しいです
こんばんは。
私はとても恵まれて生きてこれたと思っています。大なり小なり色んな事がありますが、周りの人が手を差し伸べてくれたりして何とか乗り越えられて今の私がいられる事に感謝しています。
しかし今の職場には何故か嘘をつく人がいます。私に周りの人の悪口を話すのです。
私に限らず色んな人に色んな人の事を話してるのだろうとは思います。
私も言われてるんだろうなとも思うのですが、その人の話が嘘だと分かる度に「あー、またか。」と落ち込むのにその人の話を聞く度に「そんな事があったんだ」と思ってしまうのです。学習能力がないのですね。
最近は周りの助けもあり「この話が全てではない」と一呼吸おいて考えるようにしていますが、それでもまだ信じてしまうこともあり不甲斐なく思います。
「今まで人間関係に恵まれてきたんだね。だからすぐ信じちゃうんだよ。でもこのままだと傷つく事も多いし、いつか騙されるよ」と言われます。
自分の意識次第なのかもしれませんが、やはり人から話を聞いたら一呼吸おいて考える癖をつけるしかないのでしょうか。
人の事を悪く言う嘘をついても言う人にも聞く人にも誰にもメリットはないのに、なぜ真実じゃないことをわざわざ口に出すのでしょう。
人を疑うという事が悲しいです。
でも嘘をつかれるのも悲しいです。
まとまりのない文で申し訳ありません。
旦那より一秒でも早く死にたいと日々願ってますが、それは一人になるのが怖く寂しい、旦那がいなくなった後の生活の不安など全て自分中心な気持ちからくるものだと認識しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
他者を信じられるのはよいことです
私は、紹介者でかつ仲人夫婦のウソに苦しんできました。hasunohaの回答のなかにもその夫婦のことをたくさん書いています。事実だし、苦しんでいるので仕方ないです。
ダンナ(住職)の方が私が通っていた学校の先生(授業は受けていない)でした。おお坊さんの学校の先生だから信じましたが、「騙されるものが悪いのだ」という一言が象徴するようにウソのつかれ通しです。というか、1.ウソ、2.罵倒、3.金をよこせ、4.お前なんか知るか、とおよびそこの先代住職が生きていた頃は会うとかならず舅(ウソつきは養子なので)の愚痴という5つのパターンを出る言葉はありませんでした。
嫁さんも相当なウソつきでドケチです。ウソばかりですが、たとえばクルマで移動すればすぐ近所で、かつ共通の知り合いも多いのに、家内と同じ滋賀県立八幡高校を出たことをウソをついてまで隠し、騙していました。ウソついたって当時の教職員にも卒業生にもたくさん共通の知り合いがいますから、すぐバレます。バレると今度はまた別のウソを共通の知り合いに言います。それをその共通の知り合いに聞いて私は呆れます。ずっとずっとウソをつき、そのウソを誤魔化すためにまたウソをつき、そしてそれ誤魔化すためにまたウソをつく。これがお寺で生まれ育った夫婦のやることなのかと、唖然とします(私はお寺生まれではありません。それが彼らからバカにされる理由になっています)。
そんな人間は治りません。裏表がはっきりしていて、バレるウソを平気でつく人は治りませんけど、その人のことを少しでも信じてしまうと悩むあなたはよいお人柄です。そのお気持ちやお心はずっと持ち続けてください。
自分を信じた他者を騙して喜ぶ人間になるか、他者を信じて騙される人間になるか。もちろんその両方ともご免です。ご免ですが、もしどちらか一方を選ばなければならないのなら、私は他者を信じて騙される方をとります。
どうかその人を見捨てないでください。ウソは見破っていなければなりませんが、その人を全面的に否定するのではなく、無理のない範囲でその人を受け入れてあげてください。誰かに愛されていると気づくとその人も少しだけ変わっていけれるように思います。くれぐれもできる範囲で。
質問者からのお礼
こんばんは。
ありがとうございます。
私は決して人を騙すということはしたくありません。そして人を恨むということもしたくありません。
なのでできる限り受け止めていこうと藤岡さんのお話を読んで決意しました。
本当にありがとうございました。