譲歩や忖度について
利害関係のある立場で、相手に対する譲歩や忖度について迷いがあります。
お互いに利益を追求しつつ、気持ち良く仕事をすることと念頭においています。
困っていたり分からない人を助け導き、可能な限り譲歩して参りました。
相手のあらゆる状況や条件で差別したり、相手を否定しません。
しかしながら、どうやら当方にも限界があります。
届かない相手がいます、譲歩や忖度をしてもらうことを当然という人がいます。
それらを承知で、相手を何度も許し、また丁寧にお願いをしたり、提案したり、
自分から工夫して、自分のコントロールに精進しています。
修行が足りない、のは充分承知の一方で、しんどいのも確かです。
相手が譲歩してくれる、相手が忖度してくれる、という人に
当方が学びを頂いている、と思うのも、少し無理が出ております。
相手を変えるつもりはありません。
相手の顔色を伺っているのか、相手を思いやる気持ちなのか、
譲歩や忖度がどこまで、どういるのかが分からなくなって来ました。
卑屈な考えなる前に、どうか、自浄出来るヒントを与えて下さい。
よろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
内なる煩悩とのであい
あみさん、ご自身の迷いを教えていただきありがとうございます。
あみさんは、気持ち良く仕事をすることを念頭に置かれて、人を助け導き、時には、譲歩もされてきた。相手を差別したり、否定することも無かったのですね。
そういったことを大切にされていたけれども、あみさんご自身にも限界があって、譲歩や忖度が当たり前という人がいて、あみさんは様々な工夫をして対応したけれども、自分の学びだからと納得するにも、少し無理が出てきたと、お聞かせいただきました。
あみさん、良かったですね。
突然、良かったですねと言われても、困るし怒られるかもしれません。
けれども、あみさんが気づかれたことは、どれだけあみさんが、ご自身を納得させようとしても、納得できないこと。相手が譲歩してくれる、忖度してくれることを当然として関わってくる人のあり方に、あみさん自身が、これ以上、譲歩や忖度もしたくないし、もっと言えば、そういう相手のあり方はおかしいと、あみさんが否定したいという気持ちがあるのではないでしょうか。
私はこれだけ気をつけている、努力している。私が正しいのだというあり方を、浄土真宗の言葉では善人と申します。善人というと、良い生き方だと思われるかもしれませんが、浄土真宗の理解では少し異なります。
『歎異抄』という書物に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。私なりに訳しますと「善人でさえも浄土に往生を遂げる、なのにどうして悪人が往生を遂げられないと思うのか」とでもなりましょうか。
悪人とは、私なりの言葉で言えば、自身の善人性に気がついた人。きれいな私だと思っていたけれども、きれいでないものがあった。自身で否定しきれぬ、拭い去れぬ煩悩があった。自身の心の奥底には煩悩しか無かったと気づかされた人を悪人というのだと思います。
『歎異抄』では煩悩具足なる悪人の往生こそが阿弥陀仏に願われていると説かれます。
あみさんは、迷いを通して、あみさんご自身では拭い去れぬ、心の内に根ざす煩悩を発見されたのでしょう。卑屈な考えになる前にと仰るけれども、それはご自身の心に卑屈さを感じたから出てきた言葉なのではないのですか。私にはそのように感じられます。
自浄せずとも良いのです。自浄したくともできぬのです。けれども、この迷いから、あみさんの歩みは始まっていくのだと私は思いますよ。
忖度するのは普通のこと
世の中は、基本的に弱肉強食の厳しい世界です。
仕事でも私生活でも、自分の利益や安全のために、あらゆる手を尽くすのが普通です。
忖度も、方法の一つです。
サルだって、群の中で他のサルに忖度します。
マスコミが作り上げた「忖度は悪」という印象は幻ではないでしょうか。
あなたは、あなたの利益や安全のために、何でもやって良いのです。
差別は、人間がなにかを判断するときに手抜きする手段です。
一つ一つを細やかに判断するのは面倒なので、大ざっぱに差別した方が楽なのです。
これは人間の煩悩です。
そもそも自分と他者を差別すること、細胞膜の内外を差別することから生きものが成立しますからね。
いずれにせよ、後悔はストレスの原因になります。
忖度した場合もしなかった場合も、あの時は、その時点である情報の中で判断して、自分がそう決めたのです。
後で新しい情報を知って、失敗だったとわかることもあります。
それは「失敗」であって「間違い」ではなかったのです。
過去について後悔せず、明るく生きていきましょう。
自分自身のアドリブを信じましょう。
結論「適当に生きればよい」
質問者からのお礼
秋山先生
ご返答ありがとうございます。
何回も拝読しました。
読み上げる自分の声を聞きながら、
自分の心の奥に届くよう、音読しました。
仰る「良かった」を頭でなく、心に染み込ませたかったからです。
私はまだ、頭で理解使用しています。
秋山先生に教わったことを心で受け取れるまで、読み返します。
どうも有難うございます。
願誉浄史先生
ご返答ありがとうございます。
じっくり拝読しました。
僭越ながら、私は「忖度」を思い遣りの一つと考えております。
自己満足かもしれませんが、忖度することを良しとしております。
自分に関わる方々が気分良く、円滑になれば、私は満足です。
しかし、ずっと譲歩や忖度をしていると、
それらをしなくなった時、譲歩や忖度をすることを相手から要求されるのです。
私には、それが私起因の何であるかが分からないので、
お伺いしておりました。
「適当」は、シンプルですが、シンプルほど難しいものです。