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譲歩や忖度について

回答数回答 2
有り難し有り難し 8

利害関係のある立場で、相手に対する譲歩や忖度について迷いがあります。

お互いに利益を追求しつつ、気持ち良く仕事をすることと念頭においています。
困っていたり分からない人を助け導き、可能な限り譲歩して参りました。
相手のあらゆる状況や条件で差別したり、相手を否定しません。

しかしながら、どうやら当方にも限界があります。
届かない相手がいます、譲歩や忖度をしてもらうことを当然という人がいます。
それらを承知で、相手を何度も許し、また丁寧にお願いをしたり、提案したり、
自分から工夫して、自分のコントロールに精進しています。
修行が足りない、のは充分承知の一方で、しんどいのも確かです。
相手が譲歩してくれる、相手が忖度してくれる、という人に
当方が学びを頂いている、と思うのも、少し無理が出ております。

相手を変えるつもりはありません。
相手の顔色を伺っているのか、相手を思いやる気持ちなのか、
譲歩や忖度がどこまで、どういるのかが分からなくなって来ました。
卑屈な考えなる前に、どうか、自浄出来るヒントを与えて下さい。
よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

内なる煩悩とのであい

あみさん、ご自身の迷いを教えていただきありがとうございます。

あみさんは、気持ち良く仕事をすることを念頭に置かれて、人を助け導き、時には、譲歩もされてきた。相手を差別したり、否定することも無かったのですね。

そういったことを大切にされていたけれども、あみさんご自身にも限界があって、譲歩や忖度が当たり前という人がいて、あみさんは様々な工夫をして対応したけれども、自分の学びだからと納得するにも、少し無理が出てきたと、お聞かせいただきました。

あみさん、良かったですね。

突然、良かったですねと言われても、困るし怒られるかもしれません。

けれども、あみさんが気づかれたことは、どれだけあみさんが、ご自身を納得させようとしても、納得できないこと。相手が譲歩してくれる、忖度してくれることを当然として関わってくる人のあり方に、あみさん自身が、これ以上、譲歩や忖度もしたくないし、もっと言えば、そういう相手のあり方はおかしいと、あみさんが否定したいという気持ちがあるのではないでしょうか。

私はこれだけ気をつけている、努力している。私が正しいのだというあり方を、浄土真宗の言葉では善人と申します。善人というと、良い生き方だと思われるかもしれませんが、浄土真宗の理解では少し異なります。

『歎異抄』という書物に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。私なりに訳しますと「善人でさえも浄土に往生を遂げる、なのにどうして悪人が往生を遂げられないと思うのか」とでもなりましょうか。

悪人とは、私なりの言葉で言えば、自身の善人性に気がついた人。きれいな私だと思っていたけれども、きれいでないものがあった。自身で否定しきれぬ、拭い去れぬ煩悩があった。自身の心の奥底には煩悩しか無かったと気づかされた人を悪人というのだと思います。

『歎異抄』では煩悩具足なる悪人の往生こそが阿弥陀仏に願われていると説かれます。

あみさんは、迷いを通して、あみさんご自身では拭い去れぬ、心の内に根ざす煩悩を発見されたのでしょう。卑屈な考えになる前にと仰るけれども、それはご自身の心に卑屈さを感じたから出てきた言葉なのではないのですか。私にはそのように感じられます。

自浄せずとも良いのです。自浄したくともできぬのです。けれども、この迷いから、あみさんの歩みは始まっていくのだと私は思いますよ。

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有り難し
おきもち

真宗大谷派僧侶。共に悩める場所を求めてこちらに参りました。
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忖度するのは普通のこと

世の中は、基本的に弱肉強食の厳しい世界です。
仕事でも私生活でも、自分の利益や安全のために、あらゆる手を尽くすのが普通です。
忖度も、方法の一つです。
サルだって、群の中で他のサルに忖度します。
マスコミが作り上げた「忖度は悪」という印象は幻ではないでしょうか。
あなたは、あなたの利益や安全のために、何でもやって良いのです。
差別は、人間がなにかを判断するときに手抜きする手段です。
一つ一つを細やかに判断するのは面倒なので、大ざっぱに差別した方が楽なのです。
これは人間の煩悩です。
そもそも自分と他者を差別すること、細胞膜の内外を差別することから生きものが成立しますからね。
いずれにせよ、後悔はストレスの原因になります。
忖度した場合もしなかった場合も、あの時は、その時点である情報の中で判断して、自分がそう決めたのです。
後で新しい情報を知って、失敗だったとわかることもあります。
それは「失敗」であって「間違い」ではなかったのです。
過去について後悔せず、明るく生きていきましょう。
自分自身のアドリブを信じましょう。
結論「適当に生きればよい」

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

秋山先生

ご返答ありがとうございます。
何回も拝読しました。
読み上げる自分の声を聞きながら、
自分の心の奥に届くよう、音読しました。
仰る「良かった」を頭でなく、心に染み込ませたかったからです。
私はまだ、頭で理解使用しています。
秋山先生に教わったことを心で受け取れるまで、読み返します。
どうも有難うございます。

願誉浄史先生

ご返答ありがとうございます。
じっくり拝読しました。
僭越ながら、私は「忖度」を思い遣りの一つと考えております。
自己満足かもしれませんが、忖度することを良しとしております。
自分に関わる方々が気分良く、円滑になれば、私は満足です。
しかし、ずっと譲歩や忖度をしていると、
それらをしなくなった時、譲歩や忖度をすることを相手から要求されるのです。
私には、それが私起因の何であるかが分からないので、
お伺いしておりました。
「適当」は、シンプルですが、シンプルほど難しいものです。

「人との距離感・付きあい方・接し方」問答一覧

どんな相手とも打ち解けられない

夫婦、家族、親族、どんな相手とも打ち解けることができません。打ち解けたいと思ったこともありますが、私が命に関わる重大な相談をした時、まじめに向き合ってくれる人はいませんでした。 ですから、そのような相手に、私の命や私の子供の命に関わることを相談された時、どうしても受け入れることができませんでした。 打ち解けてくれない、親密になってくれない、自分たちのことが嫌いに違いない、薄情だと、まわりの人からは責められます。 私はもう他人のために命を削って努力する体力、気力、愛情が持てません。いかにまわりから責められても、弁解も挽回も、しようという気概すら持てません。 まわりからは、利己的な恩知らずだと思われているようです。私は器の小さい人間なのだと思います。 私は疲れきっています。休んでも休んだ気になれず、気晴らしをしようと外に出ても、かえってグッタリしてしまいます。 誰とも会いたくないし、家に一人でじっとしている時、束の間ですが、やっとほっとした気持ちで過ごすことができます。 親類との関係はどんどん悪化していくようです。私が何もかも忘れて、何でもはいはいと従えば解決するのでしょうが、とても恐ろしくてできません。それが自分の決断に責任を持つ行為とも想えません。 まわりからは、自信をもってまわりからの期待に答えるよう努力してほしいと言われます。その善意で死に追いやられるようで、怖いのです。 私の心は恐怖でいっぱいです。きっと、自分は必要以上に怖がっているのだと、つとめて冷静に話すように心がけています。泣き叫んだり、感情的に怒鳴るようなことはありません。ただ、私はもう誰の役にも立ちそうにない、申し訳ないと伝えることが精一杯です。 とてもつらいです。遠くに逃げられたら、どんなに心が軽くなるだろうと思います。そんな余力もなく、時々一人で泣いています。 頭が働かず、うまくまとまらない文章になってしまいました。読みにくい内容で、申し訳ありません。 誰かを憎んだり、恨んだりはしたくありません。ただ、命をどうしろと言われるほど、信用できない人間に、自分の心に立ち入ってほしくないのです。あまりにも追い詰められて、つい誰かの不幸を願ってしまう自分が、とても苦しいです。 こんな気持ちを、仏教ではどのようにとらえるのでしょうか。どう考えれば、前向きになれるでしょうか。ご教授いただけたら幸いです。

有り難し有り難し 4
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家族や他人とうまく関係を築けない

いまだに家族や他人に心を許して素直に自分のことを話せません。 小学校高学年ごろから、祖父が亡くなったことがきっかけで家族関係がくずれていったように思います。 詳しく教えてもらえませんでしたが、家族をとりまく仕事やお金関係のことでいろいろ問題があったようです。 母はストレスがたまっていたのか厳しく気難しくなり、祖母たちとの関係も悪く、一番仲がよかった妹とも激しくけんかして以来一言も口をきかなくなりました。 わたしは家族や学校の人たちともぜんぜんうまく話せなくなり、不登校になったりしました。 わたしは気難しく神経質でずっと不安定で、自分を守るためなら平気で人を傷つけるような大人になってしまいました。 その反面、何の目標も持たず、仕事もうまくいかず、やる気のないわたしは高い学費も親からだしてもらい、生活費もまかなってもらい、実家でずっと親のすねをかじって生きていました。 ここ数年で、家を出て親と距離を置いてやっとなんとか自立できるようになってきたところです。 人間関係や仕事は今もうまくいかないことが多いです。自分が認められるか不安でなにもできなくなります。 ずっと家族のことや、いままで傷つけてきた人のことを毎日思い出し、自分はどうすればよかったんだ、これからどう生きていけばいいんだと考えます。 もしあの苦しかったとき、母がもっと自分に寄り添ってくれたら、だれかが気にかけてくれたら、と思う反面、自分では何もできない自分自身にも嫌悪感があります。 ぐるぐると考え続けて苦しいです。どのように自分の過ちを償うべきでしょうか。

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職場に発達障害で人を傷つけて逮捕歴がある男性がいます。彼には誰も近寄らず、彼も心を開いたことがありません。私は彼を支援するつもりで接してましたが、少しずつ彼の人柄に惹かれ彼も私に心を開いてくれました。私のために障害を超えて自制してくれて、初めて変わろうとしていると保護者にも言われました。彼には「好き」と言われてますが、曖昧です。私は既婚者で子供がいますが、職場の問題もあって彼は知りません。もし私が結婚していても変わらず特別な存在だと言ってくれます。人を傷つけるどころか、優しくて穏やかで私がいれば大丈夫だそうです。いつも助けてくれて頼れて甘えられる存在です。私が居眠りすると服をかけてくれたり、肩を貸してくれたりします。もちろんそれ以上の関係はありません。彼は経験がなく恋愛をしてきませんでした。もしかしたら私との距離や関係は初めてかもしれません。そして私にとっても特別です。私は親の愛情不足で育ち、子供のように甘えたり頼ったりすることに憧れがあります。気を抜いても良い存在であり、夫にはない頼もしさもあります。もちろん、夫も大切ですが、彼は男女を超えたような、枠がないような、型にはめられないような特別な人なんです。本当は手を繋いだりハグしたりしたいです。もちろんしませんが、彼氏のようなお兄ちゃんのような、友達のような親友のような、子供のような存在です。 お互いに、異性として好きな部分もあるけど、立場もあるし何よりずっとこの関係でいたいという気持ちがお互いにあるという感じです。不必要に触れてくることもないし、楽しく仕事をして私の秘書的な存在です。相棒みたいな存在でもあります。 ただ、この関係がいいのか悪いのかとも考えます。彼を傷つけていないのか、こっちが都合の良いように思っているだけなのか。 でも私にとって唯一無二の大切な愛おしい存在には変わりありません。そして、この気持ちが恋愛感情なのか、人として大好きなのかもわかりません。このまま私が思うように接していいのかダメなのかもわかりません。アドバイスいただきたいです。

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一人で過ごすべきか、他人と関わるべきか

初めて質問いたします。 私は大学一年生で、実家から離れ一人暮らしをしています。 現在私は、一人で過ごしたいという思いと、他人と関わらねばという思いの間で葛藤を抱えています。 自分ひとりの世界は、私にとってとても穏やかで、豊かで、幸福な時間です。 料理や家事が好きで、その他にも読書をしたり文章を書いたりと、やりたいこと、もっと極めたいことに溢れていて退屈しません。 そのうえ、たとえうまくいかないことがあっても、失敗もいつか成功の糧になるからと前向きに捉えることができます。 一方で、他人との関わりは自分のせいで悩み苦しみが絶えません。 例えば面倒なことを先送りにしてしまう悪癖のために、連絡の確認や自分の割り当てをサボり、同じサークルの仲間に迷惑をかけてしまいます。 また、話したり遊んだりしていてもどこか自分で無理をしているような感じがして、それらを心の底から楽しむことができません。 それに何か失敗すると軽蔑された、迷惑をかけたという思いが先行し、 罪悪感や自己嫌悪を引きずってしまいます。 率直な思いとしてはその方が遥かに幸せなので一人で過ごしたい。 けれどもこれから社会に出ることを考えると、人と関わっておいた方が良いであろうし、それに自分の弱い部分から逃げずに向き合いたいという思いも同時に抱えています。 私はどのような道を選ぶのが良いのでしょうか? 長々と失礼しました。ご回答よろしくお願いいたします。

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