迷惑をかけながら生きる事の罪
仏教の考え方をお聞きしたいので相談させていただきます。
私は複雑な事情があり、現在、現実の世界では生きているだけで迷惑をかけてしまうような状態です。
しかし、この先にそういった状態から解放される可能性が見込めるので生きています。
また、ここでいう迷惑とは、何と言えば正しいのか分かりませんが、受動的であり自分の意思で迷惑をかけたくてかけているような状態ではありません。
迷惑をかけられているという現実世界の他者の視点から見れば死んでくれた方が良いと思われてしまっても全く不思議ではありませんし、もし神様がいたとして、神様に死んでくださいと思われていても同じく不思議ではない状態です。
言ってしまえば自分の生きるという意志だけを信じており、やるだけやってみようと思っています。
また、インターネットではそういった弊害が伴うことは無いので、幸い楽しくコミュニケーションを取る事が出来ています。
そこで相談なのですが、仏教ではこのような状態で生にしがみつくのは罪(悪いことという意味で使っています、もし他に違う意味があったらごめんなさい)になるのでしょうか。
自殺も選択肢の内に入れていますが、極力避けたいと思っています。
また、私のかけている迷惑とは、人は誰でも迷惑をかけているというような比ではないくらいの迷惑をかけていると考えています。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生きることは罪である。
ろっとさんはじめまして、こんにちは
ご相談ありがとうございます。
一緒に考えさせていただきます。
私にはろっとさんの複雑な事情というのは推し量ることはできませんが、
仏教での生きることの罪について少しだけ考えさせていただければと思います。
私は浄土真宗のお寺の僧侶ですが、御開山は親鸞聖人です。
親鸞聖人は私たちのことを
罪悪深重煩悩熾盛の我ら
(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)
とおっしゃっています。
罪深く、悪重く、欲の炎が燃え盛っている
そもそも、私たちの命は他のいのちをいただくということでしか生きる事ができない
ベジタリアンとか、最近はヴィーガンとか、
ただ、罪悪感の低いものを食べているだけです。
植物も命が生きています。
ろっとさんの迷惑というのは少し違うものかもしれませんが、
生きていくことは罪と知って生きている人の方が、他の命に優しくできるのではないかと思います。
生にしがみつくのは「いのち」がそうさせています。
死にたがっている命はありません。
全ての命は行きたがっています。
ですから、生にしがみつくのは罪ではありません。
その生きていくという罪に苦しんでいる人たちに開かれているのが仏教です。
是非またご相談ください。
「人身受け難し」
ろっとさま
仏教においては、「人身受け難し」という言葉がございます。
人として生まれることは本当に難しいことであり、また、仏さまの教えに出逢えて、それを学び修せられる境涯に生まれられることはなお難しいとされます。
人として生まれられるというのは、仏教の中でも三善趣として他の畜生、餓鬼、地獄の衆生として生まれるよりか、はるかにましとされます。また、人として生まれられたということは、それだけ過去世における善き因縁があった結果ということでもあります。
なお、更に、この迷い苦しみの輪廻から逃れられる方法である仏教とのご縁を頂ける境涯としてあるのも、誠に有り難いこととなります。
今、人としてある境涯を是非、大切になさられて頂ければと存じます。
まあ、人は、誰にも迷惑を掛けずに過ごせられることなどありません。
皆、迷惑を掛けて過ごしています。
ですから、その分、助け合いや支え合いや分かち合いが大切となるのであります。
自分だけがと思われずに、できることでその分をまたいずれどこかでカバーできれば程度で考えておかれて下さい。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
浄土真宗での考え方を教えてくださり誠にありがとうございます。
詳しく知れて良かったです!
説明を聞いたうえで、私が迷惑をかけてしまうのと、生きるのはある程度は仕方がないと感じました。
なので、いただいた言葉の
『生きていくことは罪と知って生きている人の方が、他の命に優しくできるのではないかと思います。』
というような考え方を意識して罪悪感をある程度は感じつつ、より良くなれるように生きていこうと思います。
解釈に時間がかかってしまい返信が遅れてしまいました、申し訳ございません。
人であることを忘れずに、助け合ってカバーできるように努めます。
ありがとうございます!