死ぬために生ける
初めてこの場所を使うので慣れず間違ってるかもしれません、初めに伝えておきます、すいません。
なぜこの考え方に行き着いたかハッキリとは分からないけれど、自分の親友の付き合っていた彼女が16.17歳の時に自殺で亡くなり、それにとても責任があると重く考えた自分の親友が鬱病と診断されました、毎日死にたい死にたいと悩んでいました、その度に自分は何度も何度も励まし慰めて
男2人一緒にクリスマスも過ごしたりしました笑、しかしどれだけ一緒に遊んで楽しんでも彼の思い(決意?)は変わらないように思えました、それでも変わらずにいたのですが、その数ヶ月後に彼女と同じ死に方を選び自殺をしてしまいました。彼の母親から連絡を貰った時は何故か冷静でいれました。それはやっぱり自分が19年間生き
てきた中で1番分かり合えた人間だった
からかも知れません。
そんなことがあってから
死とは何か、生きるとは何か、特に自殺とは何かを考えるようになりました、でも、まだまだ未熟な自分には分かりっこありません。しかし時間が経つにつれて自分の中にあった死にたいがまた現れ始めました。
自分はハッキリとは覚えてないけど、小学校低学年の頃から行きたい願望はなく死にたい欲?がありました。
小学2年生の時に、喉の手術を受け数ヶ月?入院しましたその頃から勉強に全くついていけず、宿題に手をつけませんでした
そのせいなのか元々そうだったのかは覚えていないんですけど宿題をしないと義理の父親が怒って何回も何回も殴られた記憶があります、怒っている時に目をちょっとでも逸らすと殴られた。
また兄弟で楽しく遊んではしゃいでいる時もうるさいと言われ殴られまくりました、
母親が止めてくれた覚えは全然なく家では自分の居場所がなく思えていました。
学校でも自分が太っていた為その事で虐められたりハブられたりされて、本当に死にたかったです、毎日毎日マンションのベランダに立ち飛び降りようか泣きながら悩みました、けど、そんな醜い人間のために自分が死ぬのはおかしいと思い踏みとどまって今まで数十年生きてきました。
けれどもう我慢の限界なのかも知れません
自称大人や人間が大嫌いな自分が唯一分かり合えた親友も居なくなり耐えれ無くなってきました。どうすればいいのでしょうか、分かりません、もうそろそろ1000文字になっちゃうのでやめようと思います。長文失礼しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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マーラ
生きる活力無し男さま
生死は一大事の因縁であり、生死を明らかにして過ごして参りたいものとなります。
何のために生きるのか、どうして生きるのか、なぜ生きなければならないのか・・皆、疑問に思いながらも世俗の雑事の喧騒の中で、問う事さえもやめ、うやむやにしてしまっているところでもあるかと思います。
そこを直視して、そして、この生きることにおける迷い苦しみを無くすことに取り組むのが仏教となります
結局、迷い苦しむ原因となっているものを退治しない限りは、次の生、そのまた次の生となっていっても、どのみち同じように迷い苦しむことになってしまいます。
その原因は、無明(根本的な無知)、煩悩というものであります。
特に無明というのが厄介なもので、普段から知らず知らずに私たちを蝕んでいるものであり、気付かれないように私たちを支配している悪魔、マーラなのです。
お釈迦様がお悟りを開かれる邪魔をした最後のものたちです。
この悪魔は、私たちにも潜み、常々にうっしっしと言った感じなのです。
こいつらをやっつけないといけないのです。
亡くなられたご友人方、皆もそうです。この悪魔が私たちを悪い方へと誘うのであります。
もちろん、亡くなられた皆の次の生、そのまた次の生でも邪魔するのです。
そのご友人たち、私たち皆が、そのマーラにやられないためとなる教え、それが仏教でもあります。
皆がその教えにより救われるようにと、仏教に取り組んで参りたいものとなります。
川口英俊 合掌