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生きたいと思うには?

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有り難し有り難し 43

はじめまして。お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しくお願いします。

私は今まで生き急ぐ(死に急ぐ?)生き方をしてきました。

元々「生きたい」と思わず、
「人生は思い通りにならないのが普通だ」とか、「みんな同じ、みんな大変」という言葉を耳にしてから、尚更生きたくなくなりました。

もしも人生というものが、細々とした幸せと大半の苦労でできているのならば、もうこれ以上、僅かな幸せの為だけに生きていたくありません。

何十年生きて、心からの幸せを感じたことがないことも拍車をかけています。
「幸せは自分の心の中にある」と心の持ちようを変えても見ますが、幸せを感じる為に毎日あれこれ考えて、少し気力が出てきた頃に就寝時間がやってきて、朝起きると…また気持ちが沈んでいます。
無理やり作った幸せは、心が納得していないようです。

頑張っても報われない。あと何十年もこれを繰り返さないといけないのかと思うと途方に暮れます。

「その人の為に生きたい」と思えるような人もいません。

やりたいことは、暇つぶし程度ならありますが、その為に生きたいとは思えません。

心理学の言葉をお借りすると、私の状態は「アダルト・チルドレン」の症状が最も近い気がします。

今回お聞きしたいのは、
このような人間が心から「生きたい」と思えるようになるには、
無理ではなく、心からの幸せを感じるにはどうしたらよいか
ということです。

どうかご教授頂けないでしょうか。
長文になり申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教の実践をおすすめします。

ご質問読まさせて頂きました。
「生きたい」と思えるようになるのは、正直、人それぞれだと思います。それを探すのも人生の課題なのかも知れませんね。

「心からの幸せを感じるには」とのことですが、幸せは苦しみがあるからこそ、感じられるものです。もし、幸せしかなかったら、それが幸せだということにも気付かないでしょう。

それから、自分の外側に幸せを求めても、恐らくあまり良い結果にはならないでしょう。仮に手に入れても、またもっと幸せになりたいと思うからです。人間はなかなか満足しないのです。

そこでまず、幸せを探すことをやめませんか?幸せを求める行為事態、不幸なことなのかも知れません。自分は既に幸せであると気づくことです。

あなた様は「無理やり作った幸せは心が納得しない」「生きたいと思えるようになりたい」と言ってますね。

そうではなくて、既に幸せはあるのです。生きたいではなく、既に生きているのです。

幸せを感じないのは、誰かと比較するからではないですか?あの人は私より状況がいいということを考えていませんか?

思考するというのは、実は思考に思考を重ね、さらに思考に執着するという悪循環です。思考しすぎることに慣れている私たちは、すぐに比較したがり、そして勝手に落ち込むのです。

思考に気づく訓練をしましょう。

ヴィパッサナー瞑想の実践がおすすめです。生きたいと思うより、どうありたいかを大事にしてください。そこまで悩まれるなら、仏教を本気で実践しませんか??

仏教を生き甲斐にしませんか?

お釈迦様の教えを学ばれ、実践することが良いです。

上座部仏教のヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想は効果があると思います。
是非、調べて実践していただければなと思います。私は禅宗ですから、もちろん坐禅もオススメですが、最初にされるなら、前者のほうがやり易いのかなと思います。

亮英合掌

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真なる幸せへと向けて

とり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

世間的な「幸せ」というものは、所詮のところ、儚いもので、無常で変わりゆくものであり、また、「求不得苦(ぐふとっく)」(求めても求めても満足できない、得ることができない)という苦しみに繋がってしまうものでもあります。

仏教では、そのような「世間的な幸せ」ではなく、「真なる幸せ」となる「悟り」・「涅槃」という境地を目指すこととなります。

『心から「生きたい」と思える』ためには、まず、「生きる」とはどういうことであるのかについて、考えてみることも大切となります。

私たちは、自分が自分で「生きている」という感覚を持ってしまいがちですが、そうではなくて、色々なものに助けられて、支えられて、生かされることで、何とか生きることができています。

「生きたい」と思うためには、他との様々な有り難く、尊い関係性についても考えることが必要になるかと存じます。

また、夢や希望や目標も、「生きたい」ということには必要かもしれませんが、世間的なものでは、満足できないことも、もちろん仏教の観点から十分に理解できるところでございます。

この際、世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)には、真なる幸せなどなく、仏教の目指すべき真なる幸せとしての「悟り」・「涅槃」というものへと向けて、仏教に関心をより強く持って頂きまして、仏法を学び修していかれることを、ご一考下さいましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

ご回答感謝いたします。
私がご回答の内容を理解しきれていない部分もありますが、お返事させてください。

今までの私は、虚しく、気力がなく、ただ時間を消化し死を待つ、生きる屍の状態でした。

今は少なくとも、以前よりは、誰かと比較した幸せにあまり関心を抱いておりません。既に幸せはある。同感です。
とは言え、分かっていても生きる気力がわかない。

望むのは、生きたいという気力、その為に、一度でも「生きていて良かった」と思えたなら、頑張って生きていこうと思えるのでは、と思い質問致しました。
皆様が生きる原動力は何なのか、私は非常に気になります。今気づいたのですが、幸せよりも原動力を求めているようです。

お坊様が言いたいのは、今まで不甲斐ない私なんか(卑下でありません)を生かしてくれた人・ものの為に生きるということでしょうか?
(この質問とは別に、もう一度質問し直した方が宜しいでしょうか?)
恐れ入りますが、解釈が誤っていましたらご連絡ください。

宜しくお願いします。

追記)「生かされていると気づいていても、私は生きることを望んでない。」そんな思いがよぎる私は、おそらく「生かされる」という言葉の意味をちゃんと理解していません。

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