亡くなった犬への後悔
正直な所、私が殺してしまったようなものです。
幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。
犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。
犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。
ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。
1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。
ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。
深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。
この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。
まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。
家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。
家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。
孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。
家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。
私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。
死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。
やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。
ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。
誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。
最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。
犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。
いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。
貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生まれたものは必ず死を迎えます
愛犬が亡くなり、数年経つのにまだずっと苦しんでおられるのですね。それほどに深く愛しておられたのでしょう。殊に誰もそばにいないときに孤独死ということですから、どうしたって後悔してしまいますよね。
ただ、人間でも動物でもいのちあるものは必ず死という終わりがあり、これは変わらない真実です。どんなによい世話をなさっていても永遠に生きているペットも人間もいないんです。仏教で、生老病死を四苦といいます。生きていることが苦で、老いるのが苦で、病にかかるのが苦で、そして命が終わる死も苦です。これ自体は、どうしたって避けようのない事実であり、真実でもあるので、あなたのせいとかそんな問題じゃないんです。
もしかしたらあなたの愛犬はあなたが丁寧に世話し続けたが故に適切な死期をこえて生きたために苦しむ時間が引き延ばされた可能性もあります。酷いことを言っていたらご免なさい。しかし、そんなふうにも考えられませんか。命あるものはみな、死ぬべき時に死ぬのがよく、それが何よりよい命の終わり方だと言えましょう。だから、愛犬が亡くなったことは悲しいでしょうし、苦痛でしょうけれども、摂理に従った死であるわけです。誰のせいでもない。
さて、これからまた生きものを飼ってよいか、ということですが、その動物の老病死が耐えられないとお思いなら、止めたほうがよいでしょう。そうではなくしっかりと育てて可愛がるのだから、死ぬことはあなたも私も動物も同じなのだから、諦めよう(明らかに見て、受け入れようの意です)と考えるなら、飼っていけるのではないでしょうか。
ともかくも、生きものには老病死は避けえない摂理です。孤独死だったのは、そういうタイミングだったからで、仕事や学校、その他の用事があるのが飼い主であれば、仕方ないことです。死に際の問題じゃなく、死ぬまでの間、どれだけ愛して世話してきたか、の方が大事で、結末の数時間の問題ではないはずです。答えになっているでしょうか。