人とのコミュニケーションについて
はじめまして、私は4歳の子供をもつ主婦です。さっそく悩みですが、意気揚々と我が子が幼稚園に入園するのを楽しみにしてめでたく新生活を迎えたのはいいのですが、人を露骨に嫌な態度で見る人がいてお迎えとかせっかく楽しい心持ちだったのに今は行くのがなんだか気が重いです。
最初はその方には小さい子どもがもう一人いてしんどいんやろなって感じでしたが、ある時
挨拶ってありますよね?私は当たり前にするのが礼儀だと皆と同じようにしてたんですが、最初に明らかに嫌な態度で避けてた態度したんでなんや?あの嫌な態度!ってその人の背中に向け睨んでしまったんです。 その人がどう思おうと知るか!そっちが人の事知りもせんのにそういう態度して、小さくなるおもったら間違いやで?って気持ちで突破的に私もこういう態度とったんですが、間違ってたでしょうか?
人を見て態度変える行為するのは気持ち悪いですが、最近挨拶とか気持ちよくできません。それができる環境にいたいし、子どもに集中したいし自分のやることに集中したいだけなんですが、周り見て気楽にコミュニケーションできないと肌で感じています。
親同士とかの関係も子供の交遊にも影響したり、親同士の会話でいじめが起こる可能性もある嫌な雰囲気や世間になってきているじゃないですか? 子供は楽しく今は通っていますが、親の私は何もしてないけど、何かしら苦痛です。どうしたらもっと気楽にいられますか?嫌な態度や雰囲気の人でも挨拶はしてましたが、相手が望まないなら徹底的に無視して挨拶しなくてもいいんでしょうか?
私はなんかそれをしたら気持ち悪いですが。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
怒りの原因は自分の意見の押し付けである
まず、あなたは怒っていますね。(^_^.)
結論①それはあなただけの怒りです。相手に求め望むべき事ではない。
怒りの原因はあなた独自のルールを相手にも要求してしまったことで発生したのです。
相手にも都合や事情もあったはずでしょうからあれこれ私的な推測をまずひっこめましょう。
つぎに
問題視する、敵対視する、きっとこう思ているに違いないというあなたの思いも、あなただけの思いです。
あいてはたまたまそういう顔なのかも知れない、あなたに対しても同じように思っているかも知れない、あなたより家庭の事情が複雑で旦那とうまくいってない、生活が苦しい、子供に悩みを抱えていていつも不機嫌であるかもしれません。
ゆとりのない人は苦しいのです。大目に見てあげてください。
さて、今後あなたがしあわせに生きていくためには、あなた自身が彼女に対して抱いた気持ちに向き合いましょう。
①その思いは誰がどこでやっているのでしょうか。
②その相手は今どこにいるでしょうか。
③本人のいない所で問題にして騒ぎにしても実りあるものでしょうか。
よって、
①自分が相手を問題にして一人相撲していたことに築く。
②相手はもう、自分の事をやっているだけ。あなたも記憶の彼女をとやかく言うのではなく、実際にあった時にだけやり取りをすればいい。
③実際に話をしてみてください。それによってまた何かあったら御連絡ください。
話してみるとイメージって変わるものです。
お互いに警戒、けん制し合っているうちはそれぞれ勝手な思い込みの中での会話ですから、それって、結局それも自分のイメージ、思いなのです。
仏教は相手を変えることではなく自分の心の在り方を変えることです。
包容力・慈悲力を養う良い機会
まや様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
世の中には様々な性格や境涯を抱えた人間同士が色々な場面で暮らしており、当然に社会における人間関係の中で、どうしても馬の合わない人も出て参ります。皆と仲良く過ごせればもちろんそれで良いでしょうが、なかなか難しいことでございます。
下記の拙回答のように、人間関係においては適当力・鈍感力も問われてくるかと存じます。
問い「転職か我慢か悩んでます」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1003293425.html
「・・人間関係については、とにかく相手についてよく知ることです。相手を知ることにより、うまく対応していけるように工夫することもできるのではないかと存じております。また、皆と仲良くしなければとも思わないことです。様々に異なる人間の集まり、それは無理です。そこはある意味で適当力・鈍感力も問われます。無理なものは無理と割り切ることも必要でございます。・・」
ただ、その中でも気をつけなければならないこともございます。
拙生が心の病を色々と抱えた方たちが通所する施設の社会福祉法人の運営に携わらせて頂いた経験から、ようやくに理解が少しずつできたことに、対人のコミュニケーションにおいて、ご本人の努力や頑張りではどうにもならないことがある場合もございます。
例えば、パーソナリティ・気分・不安・適応・広汎性発達障がいなどの心の病を抱えておられる場合でございます。
どうしてこんなことをするのだろうか、なぜそんなに態度が悪いのかと時に疑問に思うこともあるでしょうが、そこは寛容さ、寛大さで相手を受け入れてあげることも大切な場合がございます。もちろん、見極めが難しいこともございますが、余程の悪意でもって危害を加えて来ない限りは、包容力を養う、仏教的には慈悲力を養うことができる良い機会が与えられたと思って、是非、取り組んで頂けましたらと存じております。
また、「障がい」に関する基本的な拙見解は下記回答をご参照下さい。
問い「女なのか、男なのか。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1003003944.html
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答まことにありがとうございます。確かに私は怒っていました。根に持っています。自分にも余裕がないから
かもしれませんが、しんどいなら余計に相手の事を察するとかどうするか解ると思うんです。そう思うとそういう行いをする人の勝手だけれど、私も勝手に相手と同じことをしているのかもしれません。相手の鏡なのかもしれません。もっと深く良く考えてみることにします。
川口様 お答えありがとうございます。
相手の状況の見極めって見えない分難しいです。自分の中にあることは人に見られたくないとか、勝手に解釈されたくないとか作っている人が多いから。
細かい表情や、言い回しとか、醸し出す雰囲気でなにかしら子供の頃から感じて人を見ていたため、
あんまり露骨な行動とかすることに対してその人の環境を考える事など忘れてしまい、怒ってしまうことがあります。 鈍感力とか適当力って使い方次第で本当に心が楽になると思います。それを発揮できる
心を養っていきたいです。 障害についてのお話も、頭に全然なく皆健康で同じであること前提で
そのことを知らず解らないからよっぽどのコンタクトとったり、知らなければ自分の気持ちをどう相手に示すかもわからなくなる時が私にはあると思います。 本当に相手がどうであれ慈悲の気持ちは本当になくしたくないものだと思いました。 相手も苦しいんだとわかると自分も苦しんでる物事があって、同じなんだとわかるとそれができるように思います。 自分に人に対しての無防備さと壁が同時に存在しているように思いました。 許容範囲を超えて苦しまない程度に人を理解する努力をしようと思います。