子供を悪意から守りたい気持ちが強すぎる
小学校低学年の娘がいます。
彼女が一人で外へ遊びに出たり外を歩いたりしている間、不安と心配でいてもたってもいられなくなってしまいます。
一番恐れているのが誘拐と、性的な被害にあうことです。
言い方が悪いのは承知の上なのですが、例えば子供が誘拐されて殺されるぐらいなら、不慮の事故で亡くなったほうがマシだと思ってしまいます。
他者の悪意に対して、異常に過敏になっている気がします。
自分自身が、例えば他者の悪意にさらされることがあっても、まぁなんとかなるやろ、と気楽に思えるのですが、子供のこととなると過剰に考えてしまいがちです。
現段階でも、キッズケータイを持たせたり登下校に途中までついていったり、できる限り守ろうと奮闘しています。
しかし、絶対に100%子供を悪意から遠ざけたいという私の中の過剰な気持ちが、自分自身を苦しめているような気がします。
もっと子供と、そして世間の善意を信じられるようになりたいです。
不安を断ち切って心が平穏になれるような、そんな考え方がありましたら、アドバイスをいただけると嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ここでのご相談ですから、このように思います。
とうやさんのお悩みお察し申し上げます。
自分のことは何とかなりますが、我が子のことになるとそうはいきません。我が子であっても所詮自分とは違う他人(一個人)です。ゆえに、管理はすべてできないと言うことです。
とうやさんのご心配なことは誰しもが思うことです。私も子供が小さい頃はそう思いましたし、成長したら今度は孫のことが同じように心配になります。
これらの心配は永遠に終わることはないと思います。実は、すべて他人のことですが、身内となるとさらにその比重は重くなるのは仕方ないことです。
でも、本当は、全人類に対してみんなが安穏であること願うのが理想で、皆がそうのように思えば世界は平和であり、そんな世界を天国といい浄土といいユートピアというのでしょう。
しかし、現実はそうではなく全くの反対で地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界。それは怒り、貪り、偽り、裏切り、噓、蹴落とし、搾取、暴力、不倫など、これがこの世です。その中でいかに生きていくかが人間としての生きる課題でもあるのです。
一見このような醜い世界だからと思う反面、このような中でこそ、救いや助け合いや愛や絆も生まれてくるのです。
少しお話がズレてしまったようですが、とうやさんのご心配に対して親としてできるだけのサポートをすることは当然ですが、家を出た瞬間からは無事に帰ることを祈るしかありません。
なぜ、私たちは(宗派によっては違うでしょう)神仏に祈るのかという中に、諸天善神のご加護を信じるからです。昨日は節分でした。私のお寺でも日曜日に節分祭を行いました。皆さんのご祈願を祈りましたが、祈ることで安心感が満たされます。もちろん神仏のご守護を信じるかどうかによりますが、それが信仰です。
自分ではどうしようもできないこと手の届かないこと、我が子が無事であること家族が安泰であること、そして世界が平和であること、祈りはすべてはこの世における大切なことなのでしょう。
人は本来、善悪もなく判断する側のジャッジで決まります。それはその時の都合だからです。でも善を行うことは大切ですからまずは余計なことを考えず、日々、安泰であることを願い祈りましょう。私も皆さんの安泰を祈ります。
質問者からのお礼
ご回答をありがとうございました。読みながら涙が出てしまいました。
本当は警戒しながら生きるのではなく、みんなの幸せを祈って生きていきたいんだなぁという自分の中の気持ちを再発見しました。
そして、恥ずかしいことですが、自分の心のどこかに「祈ったってなんの助けにもならない」という傲慢な考えがあったように思います。
今までたった一人で生きてきたような勘違いはやめて、ただ祈るという行為の美しさをもう一度考えたいと思います。
本当にありがとうございました。