自分の二面性に苦しんでいます
はじめまして。
私はいつも明るく笑顔で過ごし、年上には可愛がられ年下には頼られ、友人からも頼りにされるように努めております。
体が強くないこともあってよく周りの方々には助けていただいており、その結果様々なご縁に巡り会えました。
しかし、私はいつも人のご厚意を利用して自分の望む結果が手に入るようにしているだけだと物心ついた時から気づいてはおりました。
自分がなぜ人に優しくするのか、それは畢竟自分の為に他なりません。
自分の中には2つの自分が居るように思います。狡い自分とその状態を俯瞰して心を痛める自分。
恩義を売っておけばいずれこういう時に便利だろう、相手が求めているものは何か探って効率的に人望を集めよう。
体が強くないのは事実ですが、それさえも周囲の手助けを引き出せるよう仕込める自分が恐ろしいです。
冷静な時(平常心)は狡い方がいたって普通に活動しています。むしろ心がかき乱されたりする時にこそ、俯瞰して自分の実情を嘆いています。両方とも私であることに変わりはありませんが、余りに乖離しています。
そして生来、私は周りの人の助言が心に入って来ませんでした。私が相談相手になったときに相手にかける言葉の想定解の羅列に見えてしまうのです。
今はおそらく、俯瞰する力が強いのかと思います。神仏に額づいて許しを請いたい気持ち、罪悪感でいっぱいです。
相手が喜んでいる私を演じることが罪滅ぼしならば、後々利用しようとする心があってもそのまま演じていた方が良いのでしょうか...。
何か私を1つに纏める、軸のような言葉をいただけたらと思います。
そしてこんな私ではありますが、少しでも心安らかに暮らしていける方法などはありますでしょうか。
長々と失礼いたしました。何卒よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お話し聴かせてくれてありがとうございます。
そうですね。
私を1つに纏める、軸のような言葉
掛軸に書くなら、
『大丈夫、しょせん、釈迦の掌の上』
二面性は理解しないうちから急いでくっつけようとすると辛くなります。
二面性は自分を守るために必要な一面もあります
お互い様ですよ。
悪意の有無を感じるアンテナを磨くことは必要ですが誰かの好意に甘えられるときは、甘えればいいですよ。
わたしも毎日『自分の都合で神仏利用してごめんね、お許しください、でもありがとう』と手を合わせてからお参りしてます。
周りとの関係も気になりますがもっと堂々と楽しんでも大丈夫!
と思いました。
想定解の範囲で、期待に添えない回答だったらごめんなさい。
人間誰しも自分が大事ですから
拝読させて頂きました。
あなたの素直なお気持ちを読ませて頂きました。そうですね人間ですから自分が可愛いですし何より自分が大切です。ですからあなたはその本能の通りに生きているのかと思います。
とはいえあなたのことを仏様も神様もあなたのご先祖様方もいつでもどこでもどんな時でもしっかりとご覧になっています。ですから安心して下さいね。
宜しければあなたのお考えをありのまま素直に仏様や神様やあなたのご先祖様方に手を合わせてお伝えなさって下さいね。仏様や神様やあなたのご先祖様方はあなたの思いをありのまま全てお聞き届け下さいます、そしてあなたの思いを受けとめて下さいます。
そしてあなたにこれからどのように生きることが善いのか、どのように周りの方々と生きるのがいいのかを合間合間にお示しなさって下さいますし、あなたをお導きなさって下さいます。ゆっくりと仏様や神様やあなたのご先祖様方にあなた自身をゆだねてみて下さいね。
あなたがこれからも沢山の大切な方々と一緒にお互いを尊重し合い思いやり、皆さんんと仲良く幸せに生き抜いていかれます様心より仏様や神様やあなたのご先祖様方に祈っています。
あなたをいつでもお待ちしてますね。
質問者からのお礼
ありがとうございました。自分は投稿をしてからこのサイトにもどって来るのが怖くなり、そのまま背を向けてしまった臆病者です。自分に向き合いながら日々を送ろうと思います