「死後の裁き」の恐怖がつきまといます。
15歳の頃からキリスト教会に通っていましたが、30半ばで鬱を患い「天国を目指して迫害にも耐える信仰を持つ」というあり方についていけなくなり、仏教に心の平安を求めました。
高野山の宿坊に泊まったり、近所のお寺で座禅を組むうちに、それまでひどいときは数分ごとに波のように押し寄せてきていた攻撃的な苦しみが和らいできました。
それからも落ち込んだり、辛いことは多々ありましたが、苦しみが襲ってきて一晩中眠れないようなことはなくなりました。
相談というのは、思春期に受けた洗脳のような教えがまだ恐怖として根深く残っていることです。
ほとんどは健全なキリスト教会なのかもしれませんが、私の通っていたところでは、「伝道しないことは人殺しに等しい」「教会に来ないと悪い事が起こる」と、今思えば子供だましのようなことでも、当時の私にとってはありありと描写される死後の裁きの事や、来るべき世の終わりに大きな艱難が起こり、迫害を受けるのだという恐怖がしっかり植え付けられてしまいました。
それでいまだに教会に行かなくてはならないという強迫観念から抜けられないのです。本当に行きたくて行くのなら問題はありませんが、根底に恐怖があるのです。
実際にまた教会に行き始めたところ、また心がざわついて、イライラしたり、不安で眠れなくなったりしてしまうのです。
教会自体には問題はなくても私の抱えているトラウマが重くて、まともなメッセージも恐怖のフィルターを通して見てしまうのかもしれません。
教会に行くにせよやめるにせよ、恐怖から解放されて正しい判断をしたいのです。座禅をして心に平安を得ても、これでいいのかと罪悪感のようなものを覚えてしまいます。
仏教にしろ、キリスト教にしろ、どちらが正しいとか、教義的な事とかはわかりません。どちらにしても心がざわついたままでは一生迷いを抱えて生きていくことになりそうです。
とりとめのない質問になり申し訳ありません。
恐怖から解放され冷静な判断ができるアドバイスをいただきたいのです。
よろしくお願いいたします。
迷い、心がざわつく、動物に愛着を持てても人に対して慈悲を抱けない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
背負わなくて良いのですよ
こんにちは。
お若いときからの課題を抱えながら、長い年月を葛藤しながら過ごしてきたのですね。苦しみ抜かれてきた、そのお辛さを察します。
「教会に行くにせよやめるにせよ、恐怖から解放されて正しい判断をしたい」とのことです。禅宗方面からの回答が適切かとも思いましたが、私の宗旨である浄土真宗方面からの回答も参考になればと思い回答いたします。
あなたは、「恐怖から解放されて正しい判断をしたい」と言っています。切実であることは分かります。しかし、その「正しい判断」の主語はなんでしょう。言わずもがな、あなたです。あなたが「正しい」如何を見極め、どう「判断」するかは一手にあなたが背負っています。「信仰を持つ」とは、そういう自己責任の厳しさにさらされ続けます。
そして、その「正しい」(かもしれない)「判断」の延長上に救いがある、いや無いかもしれない。そういう不確実性と将来への不安が常に継続し続けます。あなたは、「15歳の頃から」ずっとこういう状態だったのではないでしょうか。しかし、ここでまた再び「正しい」(かもしれない)「判断」を探している。
これをあなたは当然のように思うかもしれません。
自分がやらなくて誰がやる、一般的にも信仰とはすべからくそういうものだと思われています。
しかし、自分が主語にならないくても良い、それが浄土真宗の教えです。
阿弥陀如来様が、私をお救い下さる、という教えです。
そう、主語は仏様、阿弥陀如来様です。私では無いのです。
親鸞聖人は、歎異抄の中で地獄は定まった自分の住処であると仰っています。
成仏する気がそもそもない。
仏道を歩むことを微塵も考えない。
自己中心の自分に気が付かないまま、成仏への道筋が定まらぬまま地獄を住処として命を終えようとするこの私を、阿弥陀様は憐れんで下さった。そして、お慈悲をたれて下さった。必ず極楽へつれ行くぞ、まかせよ、安心せよと。
何者かにならなければ救わないのではない。
「正しい」を見極めなくても、仏様の側が既に定めてくださっている。
南無阿弥陀仏、ただ一つ。
これを聞き信じ、お念仏する私に阿弥陀様が育てて下さる、そういう教えです。
あなたは一人で重荷を背負うのに、もう疲れ果てたのではないですか。
背負わなくて良いのですよ。
背負って下さるお方が居るのですから。
ご縁があれば、ご参考に(字数制限)
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
「自分が主語にならなくていい」
「憐れみ」「慈悲」優しくてありがたいお言葉です。
自分を主語として成仏の道が定まらないままで自分で何とかしようと心騒ぎ、もがいている自分が見えてきました。
そして自分で頑張ろうと必死になっているときは、人にも心から優しく出来ないことも。
縛り付けていた心が少し緩みました。
すぐに重荷を下ろすのは無理かもしれませんが、背負ってくださる方がおられることを思い出し、少しづつ降ろしていきたいと思います。