「うまれて来なければよかった」の後悔
私は今年で19歳になります。
今日お母さんと外食しているときにこんなことを言われました。
「なちゃ(自分)はママに生まれて来なければよかったって言ったの覚えとる?
ママはものすごくショックやった。
お友達のママにも相談した。
お友達のママはそんなんよく言われるものよって言ってた(笑)」
と言われました。
母は笑っていたものの私はとても申し訳なく思い涙ぐんでしまいました。涙が溢れ出そうで覚えているのに覚えていないと言いました。
その言葉を言ったのは小学校1,2年生のときです。
その頃は両親が共働きで毎日学校が終わるとだれも待っていない静かな家へ帰る生活をしていました。学童は人間関係が合わずすぐにやめてしまいました。
祖父母は県外でそう簡単には会えません。
自分ではとても寂しかったんです。
周りのお友達はお母さんがお家で待っていて、ただいま!と言えばおかえり!と言ってもらえる環境だったのです。
普段は18時には帰って来てくれていましたが、たまに遅い日は泣きながらお母さんに電話したこともあります。
そんなある日、私はお留守番を我慢することが出来なくなりました。
そしてお母さんとお風呂に入っているときにあの言葉を言ってしまいました。
ほんとはそんなことありません。
寂しいから構って欲しかっただけなんです。
今はそんなこと言えません。
今考えれば、忙しい中私たち(9歳上の兄と7歳上の姉)を不自由なく育ててくれたのに最低なことを言ってしまった。
本当に申し訳ないです。
小さい頃に言った言葉であれ親が傷つかないはずありません。
今日ショックだったと聞いて涙が止まりません。
後悔でたくさんです。
後悔しても過去のことは変えられないのは分かっています。
この先どうすべきかわからなくなりました。
人一倍寂しがりやな私は内気で親にも悩みを打ち明けられません。
どうすべきですか。
そして、愛情をもらえていると言うありがたさにすぐに気づける方法はありませんか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生まれてきてよかった、と言う
こんにちは。
「愛情をもらえていると言うありがたさにすぐに気づける方法」をお尋ねです。
「すぐに」というのは、ある程度経験がいることだと思います。或いは、「すぐに」気づけないのが「愛情」であるという視点も必要でしょう。
何故なら、人間は多かれ少なかれ自分中心の視点でものをみる癖があり、相手が自分にかけてくれる「愛情」を当然の権利のように受け取ってしまうことがままあるからです。失って初めて気づく、その人が居なくなって初めて気づく。そういう「すぐ」でないところに、「愛情」の感慨深さを感じることもあります。
あなたは、今よりまだ幼かったとき、「とても寂しかった」し、周囲の友人のお母さんが家で待ってくれていることが羨ましかったのでしょう。「寂しいから構って欲しかった」から心無い言葉を言ったかもしれません。
でも、今は「後悔でたくさん」なのですね。
それは、何故「後悔」するのですか。
いや、何故「後悔」できるのですか。
それは、心を傷つけることの大きさを知ったからでしょう。
過去の自分を振り返って自省する心が芽生えたからでしょう。
「忙しい中私たち(9歳上の兄と7歳上の姉)を不自由なく育ててくれた」という有り難さ、親の苦労を知ったからでしょう。
「後悔しても過去のことは変えられない」、そう事実としては変えられません。
しかし、過去の意味は変えられます。
今から、お母さんの子に生まれてきて良かった、そう言いませんか。
たったその一言に、お母さんはあなたの心の全てを汲み取ってくれるはずです。
過去の自分中心の視点の悔悟。
人の心を推し量れる、立場に立てるという心の成長。
母親たる自分の労苦が報われた、我が子の感謝。
お母さんを寂しくさせた過去から救うのは、たったその一言です。
新しい季節が始まる今日、その一言があの日止まった親子の時計の針を、再び動き出させるでしょう。
お大事に。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
生まれてきてよかったと言います。