整形のために頑張った先に何かあるのか
私は現在大学3年生の女です。
昔から顔にコンプレックスがあり、整形を考えています。具体的には目、鼻、輪郭を整形するつもりです。
そのためにバイトを頑張り、100万円ほどは稼ぎました。まだまだ足りないですが、大学生のうちは今あるお金の範囲で顔を直そうと考えています。
しかしふとした瞬間虚しくなります。同世代の女の子は彼氏と旅行に行ったり、友達とグループで遊んだり毎日楽しそうです。私にも少ないですが、友人はいます。しかし私がバイト漬けなこともありそんなに頻繁には遊びません。
私がもっと顔がマシだったら、顔を気にすることのないメンタルだったら、もっと幸せに暮らせたのでは考えるとすごくしんどく死にたい気持ちになります。
そこまで顔が悪いのかは正直よく分かりません。顔が良いわけではありませんが、よくいる顔の範疇には多分収まっているとは思います。顔が理由でいじめられた経験もありませんし、なぜ自分がこんなに顔に執着しているのかも分かりません。昔から何も出来なかったので自分のマイナスを少しでも埋めなければという気持ちが強くあることも関係しているのかもしれません。
どうしたら死にたいほど虚しい気持ちにならないのか教えてくださると幸いです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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蜃気楼とオアシス
こんにちは。
「どうしたら死にたいほど虚しい気持ちにならないのか」と御尋ねです。
「虚しい」とは、「虚」ろ、無いものをあるかのように思う心から起こります。
「バイトを頑張り」「100万円ほどは稼ぎ」というあなたの頑張りは素晴らしいです。
しかし、「もっと顔がマシだったら、顔を気にすることのないメンタルだったら、もっと幸せに暮らせた」というのは、さながら砂漠に浮かぶ蜃気楼を見るのに似ていないでしょうか。
外見を整えれば幸せになれるというのは、その外見を認めて評価してくれる誰かが幸せにしてくれるということです。つまり自分の人間そのものの価値を誰かに決めてもらうということです。
あなたは自分の価値を人に預けるのでしょうか。
整形しなければ認めてくれない人を望むのでしょうか。
幸せは本来、自分そのものが認められているところにあるはずです。現在すでに誰かから認められている自分の価値を大切にすべきではないでしょうか。
「ふとした瞬間虚しく」なるのは、周囲の「楽しそう」な誰かを見て比較して卑下しているからだと思います。
あなたには、既に「楽し」く過ごせるはずの「友人」、自分を既に認めてくれる誰かを心のどこかにおいて来ていないでしょうか。
そしてこれからも一生懸命頑張るあなたを認めてくれる人とこそ幸せになるのではないですか。
目指すべきは虚ろな蜃気楼ではなく、あなたのすぐ近くにある実体を伴った心のオアシスだと思います。
吾唯足知(われただ たるをしる)
こんにちは ななこさん。
仏教では
「足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書かれたつくばい が有名です。
私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分、つまり「ごちそうさま」と言える心のゆとりを持たねばならないと吾唯知足は、お釈迦様がが説かれた教えです。
「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」心はいつも乱れている」と言われる。
心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を是非とも理解しなければなりませんね。
幸せは案外身近な所にあるのに、私達の妬みの感情などの影響で、見えなくなってしまっているのかもしれませんね。
自分の良い点を見つめてください。
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
自分の中に確かに人と比べて劣等感を感じていた点や誰かに肯定してほしいという気持ちがあったことに気づくことができました。
私は自分の顔がすごく気持ち悪く感じるのは美醜の問題だけでなく、心の問題もあると思います。少しでも自分が幸せに生きることのできるよう精進します。