生まれてずっと希死念慮
希死念慮とは違うのかもしれませんが、まだ幼児の時に「納得のいく死に方」をしたいと思って以来、常に死と共に生きているような気持ちでした。
幼児なのに何故そう思ってしまったのかは、書くことを控えます。
事故で亡くなる人が多い家系でした。自身も成人までに何度かの事故を経験し、すんでのところで助かりながら今日に至ります。
強運なのか生かされているのかは分かりませんが、常に死のことを考えているのに、周りからは楽しそうだねアホになれていいねと言われていました。
楽しい自分を見せていたほうが周りも笑うし、それで平和なら役割なのだろうと心の中は一つも楽しくなく生きてきました。
コロナ渦になり、ある理由から人が望む存在をやめた途端に長年の縁がパタパタと面白いぐらいに途切れました。本音を出した途端に人がはなれていきました。
本音しか言わなくなったために、プライベートはめちゃくちゃです。めちゃくちゃなのに実は今が一番幸せです。
コロナ渦で「しあわせだ」などと言いづらいですし、それを言ったらどんどん人が居なくなりました。
幸せだな楽しいなと思いながら死ねたらいいのですが、まだ生きています。
しあわせな面していると不快に思われて、絶望していると人は寄ってくる。
ちょっとこれ以上は人間として生きることが難しいかなと。
現代の日本で生まれたとは思えないような生き方・環境の中で暮らしてきたため、変わった経験できたよな〜程度にあえて軽く捉えないと耐えうることは無理でした。
ちなみに誰かの役に立つことはもうしたくありません。それが苦しい半生でした。
それなら死んだら?と言われたこともありますが、お前が言うなと怒り狂ってしまいました。
でももう怒りたくないのです。
優しい気持ちで笑いながら死にたい。
人としての生にまったく意味を見出せません。幼児期に早く死にたいと思いながらも生き続け、今は中年になりましたがまだ死にたいです。
人生が嫌で死にたいのではなく、多幸感を感じたまま死にたいという我儘です。
それでも私は笑いながら死にたい。死を不幸なこととして捉えることが難しい。
死はかなしくて不幸なことなんですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたが仏教にご縁があれば考えてみて下さい
こんにちは。
ご質問を読んでいると、金子みすゞさんの詩を思い出します。
「さびしいとき」
わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、
お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、
ほとけさまはさびしいの。
「常に死のことを考えているのに、周りからは楽しそうだねアホになれていいねと言われていました」という所等、あなたが常に孤独感の中にあることを読んでこの詩を思い出したのです。
あなたが「さびしいときに」「やさし」くしてくれる「お母さん」、あるいはこれに相当する誰かがいるかどうかは、私には分かりません。
しかし、あなたが「さびしいときに」、あなたの心と同じように「さびしい」ねと言ってくれる仏様はいます。少なくとも私はそう思っています。
その仏様、阿弥陀如来様は、私を必ず極楽へ連れ往きます。
この阿弥陀をより所になさい(南無阿弥陀仏)と仰せです。
私は、そのお心を拠り所にさせて頂きつつ、命の終わりまで自分の役割を果たしていくつもりです。私は、私の心を拠り所にするのではなく、仏様のお心を拠り所にさせてただく。拠り所をどこに持つか、ここを考えるところに仏教の重要性はあります。
「人としての生にまったく意味を見出せません」とあります。
これは、もしかすると自分の心を拠り所にして、自分の考える範疇で「生」を見ているから孤独にもなり、「まったく意味を見出せません」となっているのではないでしょうか。
あなたには、既に「さびしいときに」「やさし」くしてくれる誰かはいませんか。
既に「さびしいときに」「やさし」くしてくれる仏様がいませんか。
その視点の転換によって、あなたの生も死も捉え方が変わってくるのではないでしょうか。
以上は、私の意見ですし、あなたが仏教にご縁があれば考えてみて下さい。
もし、あなたが仏教的アプローチを望んでいない場合は、ご自身の道筋を尊重して下さい。
お大事に。
追記
ご返信ありがとうございました。
また、ご相談あったらお寄せください。
仏教の教えが、あなたの縁となることを願っております。
金子みすゞさんの詩は、南無阿弥陀仏が背景になっています。
上記に説明した南無阿弥陀仏のみ教えにも良かったら触れて下さい。
では。
質問者からのお礼
ありがとうございます。金子みすゞさんは知っていましたが、詩のことは知りませんでした。他の詩も読んでみますね。
さびしいときにやさしくしてくれる母も父も残念ながらいませんが、過去にやさしくしてくれた人たちは居ます。今もいるのかもしれませんね。
仏教にご縁はあるかもしれません。ご縁がなければ、おそらくこちらに相談していなかったことでしょう。
死にたいという強い思いは、死ぬまでなくならないと幼児期に感じてしまいました。
このどうしようもなさに、あたたかいお言葉をありがとうございます。
身近な人に生死の話をすると疎遠になるため、こちらで話をさせていただきました。
私は他者から死にたいと打ち明けられることが多かったのですが、自分の死生観と異なりすぎて話を聞くことしかできませんでした。
つらいとき、私は生き延びてやろうと思ってしまうのです。幸福を感じると死に時だと思ってしまうのです。
長々と追記してしまいました。